コメント:

山道様
こんにちは
蘇轼の水調歌頭に刺激されてまたまたコメントを書いてしまいました。蘇轼は天宮に思いを馳せ,たとえ仙人になっても天宮に一人では淋しいんじゃないかとか,そんなの味気無いとか皮肉ってるようです。自分は泥臭くても俗界で普通の人々と一緒に普通に生きたいんだと歌っているようです。この水調歌頭の歌詞は本当に山道様の生きかたにもこの記事にもぴったり合っているようですね^^
自分の意志で去っていかれた友人の話を読み,すぐに以前張先生が道教の修行者は修行を最高まで極めると瞑想中に仙界から16歳くらいの美少女が鶴に乗って迎えに来るので誘惑に負けてついあちらの世界に行ってしまうと言われていたのを思いだしました。もちろんこれは張先生の冗談で,おそらく友人の方も高潔な方で,それなりの高尚な思いがおありだったと思います。仏教でも修行の進んだ者が死後高い世界へ転生するために自殺する者が多くあったという話もありましたね。
小乗と大乗の別れ目なんでしょうね。

上海の風さま

とても風流なコメントを頂き、ありがとうございます。
上海の風さんは、蘇轼の水調歌頭だけで、この記事全体を読む必要がないくらい、この記事の内容をご理解していただき、嬉しいです。

>仙界から16歳くらいの美少女が鶴に乗って迎えに
>来るので誘惑に負けてついあちらの世界

おっしゃるとおりです。これは、張先生の得意な掛詞ですね。
もし、誘惑に負け、16歳の子に手をかけたら、警察に連れて行かれてしまうでしょう。

>小乗と大乗の別れ目

今思い起こしても、友人と別れた最後の日は、神秘的でした。
後から、後から気づいてしまうのです。
自分で思うよりも、多くの言葉にならない言葉が、目に見えない形で、膨大な情報となって交わされいたのだと思います。
それは、茶道を通して、互いにお茶を淹れ合う中に込められていたのだと実感しています。

ただ、思い出さなくてはいけないのは、ぼくはどうやって、彼を見送ったかと言う記憶の部分です。その部分が曖昧でもあり、鮮明でもあるのです。

今も思い出すのです。あの日、友人と別れた、あの瞬間を。
おっしゃるとおり、運命を表現するのならば、同門であった二人の青年が、小乗と大乗の道を行くことになる分岐点でした。

彼が、ぼくから感じていたこと。ぼくが、彼から感じていたこと。出会いと別れの意味。

ひょっとしたら、意味なんかなかったのかもしれません。でも、意味を探してしまうのです。

今でも、考えているのです。あの一瞬が、まるで永遠の別れでもあり、二つの魂が永遠に一つになった瞬間のようにも感じています。

だから、農場は楽しくないけれど、ぼくはここにいるよ。

その時の体験が、『ポラリス』という詩を、ぼくに書かせました。