コメント:

・・・神は知られていないのだろうか? 
   神は、天空のように明白だろうか? 

わたしはむしろそう信じる。 それは人間の節度である。
いさおし多く、けれども詩人的に、人間はこの大地の上に住んでいる」

詩人ヘルダーリンのことをを始めて知りました。

『明るい青空のなかに・・・』
希望が想起される言葉ですね。

地上を旅する私たちが、人との関係性を深めていく傍ら、
傷つき失意することも度々です。しかしそのことを受け入れ
こうべを上げて前に進んでいきたい・・・。
だってかけがえのない仲間がいるんですものね。
私もそのことをを忘れずにいたいです。

今日の感想でした。

こんぶさ~ん

詩人ですな。昆布さんの解釈すばらしく胸に響きます。

塔に幽閉された廃人は、自分の存在よりも早い速度で、意識が流転(フルクサス)して、人間が人間であるが故に感じられる多くの感情をものすごい速度と圧縮された表現で、世界を完全に描ききりました。

生涯の大半を塔に幽閉され、歴史に忘却されたヘルダーリン。

ゲーテによって、その主観性と表現量の過剰を批判されたが、近代哲学を構築したニーチェ、ハイデガーには過剰な評価をされた。

ヘルダーリンの時代錯誤とされた過剰な表現も、ヘルダーリンが時代を錯誤したのではなく、時代がヘルダーリンを錯誤したのです。

アーティストは、時代にこびる必要など無く、自分をおおっぴらに開け放ち、自分であることを表現するべきだとヘルダーリンは教えてくれます。

時代にほふられた幽閉の詩人の魂は、時代を超えて、哲学者たちに激烈な影響を与えた。

西洋で始めて、時間と存在を哲学したハイデガーは言います。

「ドイツ人がヘルダーリンを正しく理解することができなければ、歴史が復讐するだろう」

まさしく、歴史はヘルダーリンを正しく評価しました。つまり、当時のドイツにおける識者たちが、いくらヘルダーリンを否定しようとも、歴史はヘルダーリンの復讐を果たしたのでした。

歴史は、ヘルダーリンとその過剰な表現を肯定したのです。

ぼくのブログも、いつかこの過剰な表現が肯定されると信じています。

ぼくは、時代にこびたりしません。何かによって立ったりしません。恩師への恩義がぼくを何かに結びつけはしますが、ぼくはいつだって自由だし、ぼくを抑えられるものは何一つありません。

この魂を束縛するものが一つでもあるのならば、ぼくの表現は規制され、ぼくは表現の自由を失います。

だから、ぼくの名前「山道帰一」は、何かの組織や流派に係わっているように見えるのかもしれませんが、ぼくの本質を見つめてください。

ぼくはいつだって、自由ですし、本質的に係わっているぼくの本当の肩書きは、ぼくが第十一代を努める槐軒学派だけです。

その他は、ぼくの名前を貸しているに過ぎません。恩師への義に基づくために。

きょう本屋さんでヘルダーリン詩集を立ち読み。
立ち読み道を極めたら何時間いけるかな?
なんてくだらないですね(笑)

最近ブログの時間が明け方ですね。
就寝前?それとも早起き?
あるいは寝ないでも生きられる特殊な
身体ってことも充分あり得る・・・

老婆心ながら、妙な心配をしてしまいました。

こんぶさ~ん

体調はすこぶる良いので、ご安心を。

ただ、年末も近いこともあり、色々と飲むことも多く、
深酒には注意が必要なようです。

岩波文庫の『ヘルダーリン詩集』は、お手頃ですよ。

最高の散歩の友の一人です。