コメント:

呪う側は天罰をくらうなど、呪われる側からの
せめてもの救いはないのですかね?

それとも魂を売り渡した者はそのような事覚悟のうえなのでしょうか。
いずれにしても恐いです・・・くわばらくわばら

で、符咒←スミマセンこれ何とお読みするのですか?
低知的レベルの私が山道さんのブログを読むことは
これ実は訓練にもなっているみたいです。
読めない漢字が多いから調べたり(調べても解らないことも多いですが)文章に独特のリズム感があり起承転結が明確。
そして読む側に映像的な思考も促してくれます。

だって面白い本は明け方まで読みふけってしまいますよね、
そんな感じです。
でも今日のは恐かった~。

追伸
11月8日のブログに掲載された写真とてもいいですね。
(苔の生えた岩肌に沿うようなジグザク橋)桃源郷のようでもあり、橋は若干現代的ですがまるで仙人が向こうから歩いてきそうです。
どちらの景色なのですか?

こんぶさ~ん

あれ、寝てないのですか?
あ、ぼくはホームパーティーに参加して、さっき帰ってきました。

窯でカレーを作って、炭を土台にして、壺でナンを焼いたり、ロースとポークを焼いたり、デザートは、アップルパイを窯で焼くというすごく愉しいホームパーティーでした。

朋友のⅠさんは、家庭のある楽しみを知らないぼくをいつも、ホームパーティーに呼んでくれ、和やかにしてくれます。

ありがたや、ありがたやⅠさん。

朋友とは良いものですね。

さて、ご質問の単語は、「符咒」(ふじゅ)と読みます。符呪という字でもよいですが、割と漢字をきちんと使うことにこだわるほうなので・・・。(๑→‿ฺ←๑)

今回のケースに見られるような、いわゆる呪い師の仕掛けた呪いが、天罰となって、かけた側にはね返ると言うと、そうでもないです。

全ては、五体が一つ「識」の問題で、罪を犯したという認識を持っていなければ、罪にはならないし、罰も受けません。ただし、ドフトエフスキーの『罪と罰』のように、罪の意識にさいなまされれば、当然、現実では、罰が待ち構えており、実際そのような破滅の展開を描くでしょう。

最近、シリアスな内容が多いので、そろそろ、笑える内容を書きたいと思う今日この頃です。

週末からは、明澄透派十四代黄文徳師兄に京都に召集をかけられているので、しばらく京都に行ってまいります。

あ、写真は、2000年に文化遺産に登録された青城山です。四川省都江堰市の南西15キロのところに位置します。

急に集中力や気力がうせる、
微熱が出るという、
風邪やうつに似たような症状は、
必ずしも呪術によるとはいえないまでも、
そうである可能性もありえるかも。
私は毎日複数の決まった時間帯に、急に吐き気やとてつもなく変な恐怖心、急激な気力の低下に悩まされたものです。
医学的には説明のつかない症状。

敵がない人生は、魅力がない人生を送っているとも言い換えられるので、ダニエルさんのように、人間、繊細でタフでハートと情熱がないと。

Peterさ~ん

コメントありがとうございます。

敵が好敵手という意味での敵ならば、ウェルカムなのですが、日本では、どうも、そうでもないみたいです。(。→ˇ艸←)

陰険さと邪悪なものならば、たくさんありふれている観が。

>医学的には説明のつかない症状。

何か怨みでもかっていたのでしょうか?

ぼ、ぼくじゃないですよ。(;◔ิд◔ิ) !!!

ダニエルさんならよくご理解されているように、
人間の感情なんて、
心理学でノーマライズできるほど単純ではないので、
誹謗、中傷にも背後には、憧れがあったり、
恨みの背後に、愛情的情念があったりするものです。
だから、恨みをかって、憎まれても、
タフに跳ね返しながら、自分の信念で、自分の関心がある世界で社会の一部となることでしか自分自身も相手も活かすことはできないでしょう。
でも、教条的な思想の持ち主がいて、その思想の持ち主が現実世界か、あるいは、呪術的世界(一種のエネルギー世界)で「術」をなした場合、
弱いと一方的に被害を受け、術をなさなくても、相手によっては、、、。
しかし、素人が術に対抗するためにそれに手を出したりするのは、生兵法は命を絶たれるもと。 

私を取り込んで利用しようと仕組まれたことに私が組しなかったので、かなり恨み、憎しみ、怨念はかったかも。

Peterさ~ん

なるほど。Peterさんが誰かだんだんとわかってきましたよ~。( ・ิω・ิ)

我々は、それに巻き込まれそうになったが、裏を読んだという解釈で宜しいでしょうか?

狭い世界で対立など、全く持ってバカらしいことです。

だから、私は人のことを極力コメントを避けるように心掛けています。

若かりし日々、色々と叫んだことはあったけれども、いまでは、自分のやるべきことを淡々とやることが一番重要なことであると肝に命じております。

ところで、術を行うものは、術を行うが故に、術に対して感染しやすくなるそんな一面もあるのではないでしょうか。

それはあたかも、証をとって方剤し良質な漢方薬を飲み続ければ効くかというと、身体がその薬に対して免疫ができ、効かなくなる様に。造作にも同じことが。そして、符呪にも同じことが。

端的にいえば、人間関係を持てば持つほど、人(人間関係)からの影響を受けやすくなって、自分の時間を失うようなものに似ています。

そのため、私は三ヶ月に一度しか術を打たないです。しかも、それは少しずつ現実を侵食させてゆくもので、一度や二度では達せられない大願でもあります。

目的のために、自分を削ってゆくことで、人間は真に目的を達成できると信じています。

>我々は、それに巻き込まれそうになったが、裏を読んだという解釈で宜しいでしょうか?
難しいのは、意識して避けているつもりが、潜在意識というか、さらに深い次元で、我々の了承なしに、なんらかの方法で我々の意図しない、あるいは望まない意図が埋め込まれているようなこと、現象があるのです。
この場合は、その波に乗れば破滅か崩壊が押し寄せ、波に乗らないと堂々巡りかどうにもならない状態から抜け出せないという性質の悪い洗脳下に置かれてしまいます。

この状態で助けを求めれば、助けが助けではなく悪化させるもとになるのです。そして人によると意識かなにかの「伝染性」が作用し、それが輪をかけることも。
これを霊的社会ではお試しと呼ぶ人もいるようです。

相手の了承なしに勝手に遠隔で霊媒養成ができるという日本の伝統的霊的社会の本を読んだことがあります。これは自分たちの伝統社会を維持させるためには必要かもしれませんが、当人にとっては迷惑な話。
この話は善悪というbinaryな対立が何を基準にするかによって、大きく変わるいい例で、この符咒の話も、それぞれ言い分があり、それぞれに大儀名分があるのでしょう。
生きていく限り、この話類の決着点は、自分が犠牲にならず、できうる限り他人も犠牲にしたくはないものですという陳腐なことになってしまわざるをえません。

しかし、やられたりやり返してやりたいという意欲もわかないくらいの状態の私でした。