コメント:

私は、三重大学の貝崎先生のご本は、様々な風水本でも、余計なことは書いていませんが、そこそこのものだと認識しています。
日選びにしても、世界と日本の変遷の経緯などを学者としては実直にご研究なさってご本をお出しになっていると思います。

きっとこちらの主には研究不足でご不満な内容なのでしょうね。

 目崎さんの『図説風水』という本を立ち読みしたことがあります。

 読んでいて思ったのは、多くの風水研究家や学者に見られる過ちが、多々あり、内容に不満があるのではなく、ただ単に間違っている方向性を強く感じました。

 以下、小生なりに日本の風水研究家といわれる学者の誤りを列挙します。

一、風水の定義とは
まず、第一に、学者と実践家といわれるプロの決定的な違いは、学者が書いたものは、あくまで、研究されたもので、客観的視点に耐えうるものでなければならないと思います。
 その点、実践家と言われるプロの風水師は、風水であろうとなかろうと、本が売れたり、自分のCMのためには、ありとあらゆることを主観的に書き綴るものです。
 そのためか、おそうじでさえ、風水といわれる日本人の風水認識のなかに、学者が共通の「風水」と言う二文字を民間レベルの定義と混同して、もしくは、「皆様の知っている風水です」のように、決して共通の認識にはじめから立つべきではない。
 学者は、風水を厳密に定義しなければならない。定義するときの条件として、最低限以下の問題は考慮されるべきである。
 ① いつの時代の風水か?また、いつの時代から風水の歴史上における派生と成り立ちを見出し、定義しうるのか?
 ② どういった風水なのか?また、その風水の成立した思想的背景や歴史的背景は?

二、風水の帰納法的分類

帰納的定義とは、集合の要素をまずいくつか与え、その他の要素を定める操作・手順を与えることにより、その集合を定義する方法である。しかし、「風水」なるものに学者が接するときに、この帰納定義が全く機能していないことが良く分かる。

 例えば、風水は、少なくとも、明代には、中国国内では、以下のように、帰納法的分類が行われていた。

 例えば、理気には、以下のような学派があり、それぞれに違った思想背景と視点を持ち、風水を発展させていた。

 <六大課・三式による風水>
  太乙派風水・・・六大課・天式「太乙神数」に基づく。
  奇門派風水・・・六大課・地式「奇門遁甲」に基づく。
  六壬派風水・・・六大課・人式「六壬神課」に基づく。

 <六大課・三典による風水>
  星平派風水・・・六大課・中典「星平会海」に基づく。

 <その他>
  合元派風水・・・三元派・三合派に基づく風水
 
 だが、学者は、一体いつの時代の風水をどういった分類で見つめているかさえも明らかにしていない。

三、一体どういった「風水」の視点に立ち、風水を読み解こうとしているのか?
 
 目崎さんの本で読み解こうとしている事例、場所などに、独自の風水観がでて来るが、学者ならば、場所を分析する際の風水技術を学派といわれる流派ごとの視点に立ったりして、多角的に見なければならないが、主観的になり、「自分の知っている風水だけが風水」のような独善的な主観のなかに陥っている。実践家といわれるプロならば、それで良いだろう。
 しかし、学者の書く本は、実践家といわれる人たちの本とは違い、常に客観的なアカデミックな論法が必要ではないか?
 そんな一神教でも研究するやり方では、とても、とても、学問と呼べません。風水は、アミニズム文化から始まり、汎神論としての思想背景の下で、進展してきた「宗教儀礼」や、同郷、仙道で見られるような「気の世界」をも含むのです。そもそも、「風水」の二文字の風と水の主語が気なのですから。また、古代人の天体観測における天体と大地との対応など、風水は甚だ自然科学の分野にも言及します。

以上の三点から、学問的視点を完全逸脱した研究と言わざるを得ません。

ダニエルさま

「満堂水」いいところでしたね~。
ダニエルさんと行くと虹までお迎えしてくれました!

山上の垂訓の如く、頂上前の休憩で教えてもらった言葉。
『登るのはきついけど、すぐ前にある気持ちいい場所に行くのか、あきらめて降りてしまうかだったらどちらを選びます?』

山登りする服着て来てなかったけど迷わず選んでよかった。

脱げかけの靴を履いて頂上まで行って良かった!
気持ちいい場所は、空気や木の葉も甘かった!
龍の背に寝転び、最高の気分だった!

人跡未踏の頂上めざして、ダニエルさまがんばってください。
応援しております!