雪桜

20090226034150  さくら さくら 今 咲き誇る
 刹那に散り行く運命(さだめ)と
 さらば友よ 旅立ちの刻(とき) 変わらないその想いを
                      『さくら』森山直太郎

 昨日、一足早いさくらに出会う。写真は広尾の有栖川公園にフライングして咲いてしまったさくら。ベンチに座り、さくらを眺めながら、気功師の長谷部さんと二人で語り合う。

 テーマは、「何故、山道は綾部補完化計画のメンバーから脱会したか?」である。

 綾部補完化計画が発足し、動き出して、軌道に乗ろうとしている時、ぼくはメンバーとして係わることを辞退した。

 この計画は、ぼくが提唱したものであったが、それが一つの形のグループとなった時、多くの人に声をかけ、有志を募ると言う困難な仕事を情熱的にこなしたのは、ぼくではない。イスカンダルさんだった。

 順序を追って、自分の心理的洞察から話し始める。そう、それは山道の心理に潜む山道のルールというより信条です。それに違うということは、自分を裏切ることなのです。

 一、グループとは善も悪も含み、個人的な好みが反映されるものではない。

 二、グループとは人と人の信頼関係から成りつたもので、信頼できない人間とグループにはなれない。

Unmeiwowaketa2 この二つが破られた時に、冷静に判断しなくてはならなかった。自分の立っている場所を。判断の結果、そこは危険な雪山や氷雪。後ろから、ちょっと背を押されれば、山から滑り落ちるような立ち位置。

 結果、安全確保も兼ねて雪山に行く登山のパーティー(グループ)ではなく、ザイル(ロープ)も結ばず山を登るフリーソロこそが自分が貫くべき態度だと考えるに到った。

7andy_06765853  山と自分というソロ(伊solo 単独)で向かいあう孤高であることを選びたくなってしまった。フリーソロとは、道が険しいことを十分に承知し、言い訳、弱音が一切役に立たないと自覚した世界。そして、自分を信じられない者は、そこに足を踏み入れる資格さえ無いのだ。そこは、孤高であってこそ踏み入ることのできる境地。

 これは、登山のフリーソロだけではなく、仙道でも同じたった事を思い出した。仙道という人が山を登って行く姿に譬えられた内面のインナーワールドへの冒険における必要最低限のルールは、フリーソロだった。

20090226034208  雪桜は滅多に見られるものではない。今日は雪桜。水墨画を飾る一枚のような雪桜が美しいのは厳しい条件である雪の中にか弱い櫻が咲き誇るからである。これが、フリーソロだよね。自然界の中で蟻んこみたいに小さい人間が己の小ささを乗り越えるため、悠然と聳え立つ山を登りありとあらゆるものを噛み締める。何人であることも無く、何人である必要も無い己が演出されては消える。そこには、比較することすらバカらしい世界が横たわる。

 昨年、張明澄先生の五回忌に三峰山頂から誓った言葉を思い出す。

Img_3099 何人であることもなく、何人である必要もない自分になり、
社会貢献をいたします。
それが、教わったものが、正しいと証明する方法だと信じております。

 

M0804231 安全を確保するためのカラナビもザイルも無い世界。有るのは自分の生か死で演出されるのは、登山も仙道も同じだ。人生で演出される最大の演目である「生死(しょうじ)」は同じで、目に見える生き方や死に方が違うだけで本質は変わらない。

 表として目に見える達成感有る登山に対して、仙道の世界は内面の達成感だけだと世の人々は勘違いしがちだが、仙道も登山と同じで、ある境地を達成したものには、肉体にも変化は現れる。

 

Img048  それは、厳しい雪山を登頂し獲られるものと全く同じで、儚く、か弱くも壊れやすい己が生命をフリーソロという命懸けの状況において始めて、発ち現れる世界。溶け出した雪崩に飲み込まれるように、自分を 世界を 全てを消され、暗闇の中でもがき続け、発狂しそうな狂い行く己の精神状態の中で見つめたもの、出会ったものの中にこそ真実があった。そう、かくも脆く儚いから感じる事ができる。

             「俺は 今 生きている」。

  
Primula_sinensis 屍(かばね)であった己との決別の瞬間。意識に宿る雪桜。回転する無数の花びらと美しく、心を溶かして輝く銀白の光、それは生命の輝き。限りない生命の探求で行き着いた山頂で見出したもの。それは息づく己の生。

 この綾部計画から離脱する時に、建築界のゴッドと呼び称される尾竹先生は、「山道が辞めるのならば、オレも辞める」と一言だけ言ってくれた。

Img051  仮に尾竹先生が有名な人でなくても、建築技術が無くても、権威がなくても、人間関係が無くても、お金が無くても、無い物だらけだったとしても、ぼくはその本質に有るもの一つで、彼を見抜き、そして心から尊敬できる。それは、尾竹先生にとってのぼくも同じことだと思う。実際、ぼくは無い物だらけだが、一つだけ過去を振り返って今に到るまで共通している事があった。命懸けを通じて出会った事が有る!フリーソロを通じて。それは、何を糧に生きているかという点を認識しているのかという点である。こればかりは、頭でわかったつもりでも、決して真似などできぬ本質の核なのだ。頭でっかちの理屈や理論ではない。わかる者には、わかる。まるで、禅の世界のようだが、実際にそうなのだ。

Img049  これがフリーソロをしているもの同士、通じる心の繋がりなのだ。この繋がりはロープよりも細くて目に見えないけれど、決して切れることの無いザイルであり、アンザイレン(ザイルで繋がった状態)なのだ。ぼくが求めた人との繫がりとは、正にここに有るの一言に尽きる。それは核と核の繋がりであり、核と核の共鳴なのだ。孤高であったから見分けられる。そして、分かり合えるのだ。孤高の人を。
 

 そして、偶然は必然となり運命は紡がれて行く。あの寺で見た銀白の満月はスティグマとなり。再現される。少なくとも、ぼくらはその光を今も追って見つめている。

 これは科学と医学によって、認められるだろう。

   何人であることもなく 何人である必要もない自分になり

 ぼくは仙道のインナー世界の冒険をフリーソロすることで、その瞳にスティグマを刻んだ。そして、尾竹先生も偶然立ち会ったぼく自身が被験体となった某大学病院で行われた実験で、確かにぼくは目に見える人体の変化という結果を出した。それは、現代の科学、医学では理解できない結果だったが、確かなデータ、そう現段階の医学や科学で理解できないという結果を叩き出すのに成功した。

512pxo1qgml  それは計算できないことから生まれてくるものであることをぼくは知っている。言葉だけ、文字だけならば嘘つきでもできる。

 言葉を越えて、己をより厳しい場所に晒し、自分を信じ続け自分を試し続ける。そんな反復と訓練の中で育ったぼくにとって、実験室は怖い場所ではない。実験室は大好きかもしれない。実験室は嘘喰いだから。そこでは、どんな嘘も通じない。しかし、久々の実験室だったな。中国の特級気功師の認定試験以来だ。

 自分を信じているから。そして、

   それが 教わったものが 正しいと証明する方法だと信じております 

 何かを開発したり、発明したり、広めたりして世に貢献する方法も有るだろう。ただ、果てなく続く山頂を夢見たフリーソロ、そしてあの瞳に焼きついた雪桜たちが、ぼくが既に達成した結果を語ってくれた。その成果を持ってすれば、一円もお金のかからない方法で、社会に貢献することができるのだ。ぼくは自分を今後も医学や科学の実験対象として捧げることにした。仙道で得た境地は人体にも顕著な変化をもたらす。ぼくは自在に光を目の中に宿す事ができるようになった。そう、深い暗闇で求めたのは光だったから。そして、今度は光と共に、自分が挑み続けたフリーソロの果てで、得たものを持って

   社会貢献をいたします

Qkfuyusakura  約束は、実を結び華となり、厳しい環境を耐え、咲き誇ってこそ美しい。それは、孤高で有るが故に達成できる境地。言葉だけの上滑りな耳に優しいだけの声は、聳えない。ソロでそそり立つから分かり合える仲間がいる。そう、それは厳しい環境を耐え、共に咲き誇る雪桜。

 さぁ、行こう!新しい旅立ちの刻(とき)!綾部補完計画と呼ぶのもやめよう。それは、そこで、ただ起こるのだから。ぼくたちのフリーソロを通じて。

 今ならば言えるだろうか?偽りの無い言葉。

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