陰宅実務2

1 山岳遭難しないために、或いは特定の目的地に向かうためには、地図とコンパスだけが頼りである。山道を駆け抜け、コンパスで北(磁北)を知り、地図の北(真北)をコンパスの磁針を手がかり偏差と共に合わせ整地し、それから地図と景色を見比べて、現在位置を特定しつつ、目的地に向かう。

 こういった作業を登山の経験がある人ならば誰もがしたことがあると思う。 

2 風水師の仕事も登山家と通じるものがあり、山に入れば少なくとも、今現在自分がいる場所を把握できなければ、登山家は遭難するだろうし、風水師は正しく巒頭の把握も、周辺環境と方位・時間をつなぐ架け橋となる様な理気の技法も全てが使えず仕事にはならない。おまけに山で遭難する可能性も高い。(笑)

 但し、感覚で「この場所は素晴らしい!」と、自分がいる場所もわからずに叫ぶのが、感じたままの素直な表現であったとしても、その場所がどの位置かを地図上で現在位置を把握できなければ、再びその山中の一点に戻るのは容易なことではないだろう。特定の場所にたどり着くことを目的とした地図とコンパスなのである。

 

Img_1949e1370669035236 そのめたには、山中において、とりわけ陰宅風水において、どの位置にその陰宅(お墓)があるか、或いはどの場所に陰宅を造成するか、という場所をはっきりと地図上で現在位置を把握できないのならば、残念ながらその場所がどんなに素晴らしくとも、再び辿り着けるかは甚だ疑問である。

 

Dsc01985 と言うのも、陰宅として使用するスペースは実に僅かな畳数枚分にも満たないのであるから、広大な山中では正確な地図が必要であるということの意味はご理解して頂けるだろう。

   

     

20130729r0010817 山中の霊園でも、檀家が多い場所や新興の霊園ならば、5000分の1以下の精緻な詳細地図は大抵は霊園が管理して作っている。もちろん中にはいい加減な霊園の位置だけがわかるような実際の製図された地図とは無縁な見せかけだけで、地図ではない地図もどきのイラストも多い。そういったものは風水の目的からは役には立たない。

20130729r0010836 そして、現代編では陰宅風水における地図上の点、つまりは地図上で現在位置を把握するために、こんな装備が理想だと思う。

 左の写真のようにDGPS装備してみました。

     

  

Garminetrex102030

 普通のハンディGPSでは100メートル位の誤差が出ます。それでは残念ながら風水のシーン、詳細な地図に点を打ち込む作業では役に立ちません。

  

    

5_2 DGPS(ディファレンシャルGPS)とは、中波帯の電波を使って、米国が運用するGPSの精度が1m以下となるような補正値を提供してくれます。つまり文字通り地図に点を打つ点穴が可能です。   

 

   

Dsc02024 写真は住職さんと共に山に行って陰宅用の造成地を選定しています。霊園の地図もなく、このDGPSが重宝します。また見つけた場所に好き勝手に墓が法律上造成できるはずもなく、許可された寺の所有する山間の土地しか陰宅には使えませんから、目印がない山で境界線などを探すのにもDGPSレベルの精度があれば便利です。

4 左の衛星写真のようにDGPSで特定された場所は詳細な経緯度で表示されますので、ご覧のように地図上で現在位置を把握できます。

 左の位置は参考のため、適当な数値を入れたものです。

Dsc02019 さて、ここで誤解がないように述べますと、山間で詳細地図のない場所において、墓を建立して問題となるのはその墓がどの場所にあるかを明確にクライアントに示す必要があります。

 さもなければ整備されていない山間にあって、交通も不便で徒歩のみで道無き道を入らなくてはならない墓地の場合、お盆にお墓参りさえできなくなってしまいます。

 いくら風水が良かろうとそれではあんまりです。

    

 

Dsc02055 先程から地図上で現在位置を把握の部分が赤文字になっていることに、もうお気づきの方もいることだろう。(笑) この赤文字は、あくまでもこれらのDGPSなどの機材が重要なのは、遭難を防ぐことや、山間で地図のない墓地の位置、つまり地図上で現在位置を把握するために便利であるということを述べているのであって、こういった機材がないと風水ができないなどと述べているつもりは毛頭もないからです。そもそも古代社会においては、こんな精密な機材は当然存在しませんが、風水は風水として成り立っていました。

 厳密には古代というより明代から近現代である清代にかけて大いに発展した風水の理気ですが、必要とされる方位区分を一度以下の単位による区切りが要求され、そのために精密な測量が必要になると思ったら、これは大間違いです。そもそも、風水は理気だけでは成り立ちません。

 そして、風水は数学でもなければ、科学でもありません。鍾進添老師のお言葉を借りるのならば神秘学です。一度のズレもなく理気の吉凶に己の判断を委ねて角度を気にしているだけならば、それではまるで総合判断を方位区分の中に委ねているようなものであり、そのような理気のみによる、方位だけから自動的に吉凶を求めていくという具合の風水は、真の風水と呼べるはずもありません。

 それはどういうことかといいますと、鍾進添老師が述べられるお言葉からそのまま引用させていだきます。ここには風水の真諦を語る上で非常に重要な金言が隠されています。以下に訳出しますね。

 

師曰く

 

 しばし言われるのが「ほんの僅かな度数、方位区分(分金)がずれいるだけで、富貴とは出会わないだろう。」と言われるのは、あまりにも神話のたぐいの話だろう。実際には方位区分の度数は、ただ吉凶の判断の一端に過ぎずに、決して吉凶判断の全てではない。もしも、分金の度数のみによって吉凶を判断の全てをするのならば、あまりにも強引な考え方であり、実際の現象と合致しないだろう。

 風水師は理気の方位区分よりも、地理形勢(巒頭)をより重視して看る。そして、風水師の看法は「経験則」に委ねられている。それは風水師の「眼力」と言い換えることができるかもれない。

 「風水」とは一つの「芸術」としての要素が多く、「科学」的な類推(類似の点をもとにして、他を推しはかること)するロジックや数学の論理とはならない。

 それは、一枚の「名画」を鑑賞するようなものであり、素人(外部の人間)は、ただ描かれた絵画が美しいのを見て、専門家(内部の人間)が「神韻縹渺(しんいんひょうびょう)」(芸術作品などがもっている、表現しがたいきわめてすぐれた奥深い趣)を味わうことを知らない。

 専門家は名画の精彩で奧妙(奥深くてすぐれている)なことを鑑賞できる。その精彩で奥妙な部分とは、「言葉で伝える事はできず、心で理解することしかできません。」という部分である。

 故に「科学」的視点に立って「風水」を分析することでは、 風水の奥妙とでもいうべく本当の風水は体得できない。

 風水とは玄学であり、科学に置き換えて説明することはできない。

 言わば大事なことは精密な測量によって度数の僅かな差を細かく計測することではない。と言うのも、風水の総合判断とは、風水師の「経験則」に依るのだから。

 

 

語云:「分金差一線、富貴不相見」把分金說得太過神話。其實,分金度數,只是吉凶判斷的一端,並非吉凶全部。如果僅依「分金度數」斷吉凶,太過武斷,並不合實情。

風水師看地理,「巒頭」形勢比「理氣」分金重要,而其看法,很多是憑「經驗法則」(也就是風水師的「眼力」)。

「風水」是一門「藝術」成分多過「科學」的「類推邏輯」,而非「科學」的「數學邏輯」,好比欣賞一幅「名畫」,外行人只看畫得好看,而不懂領略內涵的「神韻縹渺」。而內行人則能欣賞出名畫的「精彩」「奧妙」處(只可意會,不可言傳)。

故用「科學」的眼光分析「風水」,無法真正體會它的「奧妙」。故「風水」算是「玄學」而不能說是「科學」,故不必斤斤計較,測量度數的些微之差。

 

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