文化差異としての占い 

 日本において「五術」という素晴らしい文化・歴史・学術は、歪曲され、日本既存の庶民たちの文化概念である「占い」というジャンルに類型化されてしまっているのが、惜しまれてならない。

 中国・台湾・香港では、「占い」を「算命」と言い、「算命(占い)」というカテゴリーに相(風水)、卜(断易・周易)、などを一緒くたにまとめて、「算命(占い)」と、総称したりしない。

 あくまで、「算命(占い)」は、五術で言う「命」を推し量る子平八字、紫薇斗数、鉄版神数など五術の「命」の部分を的確に指し示すだけなのだ。また、日本では、手相も、人相も、星占いも、「占い」だが、中国・台湾・香港では、手相を「手相学」、人相を「面相学」、星占いを「星相学」と呼び、決して、日本文化に根付く、「占い」なる概念で、これらの五術文化を取り扱わない。何故ならば、中国語圏では「五術」は学問であるところの学術としての意味もあるのだから。

 五術という学術としての区分けさえも無視して、全てを「占い」と呼ぶ、日本での五術のあり方は、位置づけからして間違っており、既存の文化に「五術」という概念が未だ無いのがよくわかる。つまり、日本は未だ五術文化を受容できていないのだ。日本で言う「占い」とは、日本既存の庶民たちのお遊び(なぐさみ)としての文化概念なのだろう。

 『広辞苑』には、「占い」とは、「占象によって神意を問い、未来の吉凶を判断・予想すること。また、それを業とする人。」という、職業としての意味まで含まれているのだから、日本で言う「占い」なる概念は、庶民に根付く、身近な人生相談を生業にする人くらいの意味にしか解されないのが、日本文化で言う「占い」であり、それは完全に宗教信仰の世界であり、学術として、その原理や論理を解明探求していこうとする学術的態度がまったく見られないのが、日本で言う「占い」の文化なのだ。

 そもそも、近代日本において、「五術」なる文化・歴史・学術を日本文化にはじめて持ち込んだ文化人が、張明澄(張耀文)先生なのだが、「占い」としての視点で、「五術」を日本文化に受容しようとする受け手側が、原理や論理を解明探求していこうとする学術的態度にまったく基づかなかったため、ひどく歪曲されてしまった。

 日本の既存の文化概念で、「五術」を推し量れるほど、単純なものではないということだけを述べさせて欲しい。つまり、「五術」を「占い」という日本の既存の文化概念で考えるのは、スタートからとして間違いなのだ。

 我々は、過去の人たちの間違いを認めて、もう一度、「五術」と呼ばれる古代中国の哲学・思想・文化・歴史・天文・地理・呪術・医術・芸術・自然科学を原理や論理を解明探求していこうとする学術的態度を持って、歴史の上から捉えなおさなければ、永遠に「五術文化」は、日本文化において受容されることはないだろう。そしてこれは、歴史上の事実として、人が考え、人が残した営みそのものでもあるのだから、どうやって、「占象によって神意を問う」だけで解決することができるというのだろうか?

 常々、老師は、「五術は、人が生き残って行こうとする知恵」だと、教えてくださった。それはあたかも、ダンテ神曲の一説にある「神は運命を予言するが人は運命を変える」ごときものだ。ダンテ神曲に見られる思想のように、五術もまた、人の営みが凝縮された姿であり、それを人間がどう捉えるかという問題を扱って来たのではないだろうか。

 日本の既存の文化概念としての「占い」という恣意に基づき、「五術」文化を受容するのは、危険だ。「五術」は、中華文化圏における古代人の思惟なのだから。ただ、既に一部の人間たちは、広範な意味で「占い」という言葉に解釈の幅を持たせている場合もある。しかし、これからは、上記で述べているように、注意深く言葉を切り分けなくてはならない。日本の既存文化の「占い」という概念から離れるように言葉にも慎重になるべきだと思う。

 既存の「占い」という観念でしか、「五術」を見つめられなかった時代が、終焉を告げている。これからの五術について、新しく芽吹くものを感じる。それは、張明澄先生のような巨人や、隠者たちが、新しい世代の研究者、実践家たちに「芽ぐむ」ものであったと信じている。そして、この時代の節目にあって、正しい方向が、指し示されようとしているのだ。それを何人たりとも、過去の因習にとらわれ、この新しい生命の息吹たちを打ち消すことは出来ないだろう。

 もう時代は変わるのだ。変わらなくちゃ!

 日本においては、既存の概念にお行儀よく、収められようとした五術は、その概念を打ち破り新しい方向に流れ着く兆しが見え始めてきた。ただ、そんな川の流れを漂うように見せかけた、北朝鮮の偽装船のような、もしくは舟場吉兆みたいな人たちが多いのも事実だ。いくら食糧問題やロハス的とか現代風に屁理屈コネテもお客様に使い回しをしてボッタクリをしているに過ぎないのだ。この世の中には、そんな輩が多すぎる。つまり、「占いは信じるな!でも、私を信じてください」と、宗教にみられる信仰に五術を言葉巧みに組み替え、学術を貶めようとする悪質な過去の遺物たちは、色々と言葉と品を変え、「占い」に留まり、そして、新しい世代たちは、もう、そんな世界に踏みとどまるな!つまり、コーヒーに砂糖を入れるのが大好きな、甘党さんは、砂糖を入れ続ければよいのだろうが、読者も悟らねばならない。それが、ただの屁理屈だと。

 私は、この世界から過去の怨念に満ち満ちた遺物たちを取り除き、次の世代に笑顔でバトンを渡せるように変えたいと願う。だが、まだまだ、ここは、老獪な妖怪たちが住まう権謀術数の迷いの森なのだ。でも、誰かが綿々と続く伝統が歪曲されたこの世界を変えなくちゃならない。ただ、「ありがたや~」 、「開運シチクリ」、「信じるから救ってクリ~パクリーミン」みたいな日本人気質の宗教における信仰の中に、五術の真諦はないのだから。

 これからの五術に問われる新世代の人たち、言わばニュータイプの皆さんがしなければならないことは、「五術」を既存の日本文化概念である「占い」という視点から見ることをまず、やめることだ。
 
 中国五術文化を原理や論理を歴史から反芻し、よく調査研究して、解明探求していこうとする学術的態度を持って捉え、臨まなくては学術としての五術は何も見えてこない。

 「世界は何のためにあるのか」という問いから端を発し、世界と向かい合い、古代から現代までの人間の営みを見つめ続けて、恣意ではなく、思惟で、客観的観察者である自己を忘れずに、主観的よき洞察者となり、研究から実践まで、こよなく愛し、果ては「叶わない世界は何のためにあるのか」という、宗教・哲学が持つ命題まで、足を伸ばしてもらいたい。

 その時、ぼくらは、見つめ続けるのだろう。この「五術」といわれる古代人の見つめ続けた世界を。そして、そこで得た知恵を再び、現代に持ち帰り、構築しなおさなくてはならない。その時、五術は、文化や思想として、既存のものがつくりかえられ、更新された上に保存され、胎動を始めるのだから。

 そして、新しい歴史は、この地平から顕われ、つくられて更新されて行く。ただ、我々は耕すのだ、この広大な大地を。そして、仮に私が倒れても、誰かが、私の倒れた地平から現れて、この広大な畑を黙々と耕し続けるのだろう。その時、私もまた、この伝統の中に還元されて行き、私は渡しになるだろう。それをすごく名誉なことだと思う。何の価値も見出せぬまま、この希薄な現代の中に、等しく何の価値も無く埋められて逝くくらいならば、喜んで捧げよう、この一生を。

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