コメント:

いつも拝見させていただいております。山道様の思いがあふれている文章に、コメントなど付けるのも無礼かと思いつつも、また勝手なことを書かせていただき失礼します。

一滴の涙は、そこからこぼれ落ち、記憶の奥底に残る。たとえそれが万人の知るところではなかったとしても、想いの海原にはつながりいつか誰かのこころに水紋となり広がりゆく。

受けとめた涙はやがて、誰かの想いとなり、脈々と受け継がれていく。受けとめていく事でしか、亡くなった方への思いを表すことは出来なくて。

山道様の中に受け継がれている思いがいつかまた誰かへと。そうして人は生き続けている。その事が生きる証となるように、人は生きなければいけないのかも知れませんね。

長々と失礼いたしました。

nanashyさ~ん

いつも真心のこもったコメントをくださり、ありがたい限りであります。

ふと、色々な方々、それこそ色々な立場の方々が、ぼくが張明澄先生に寄せた文章を読んでくださり、「ああ、弟子だったから、こういうことを言うのか。人としてその心境はわるよ」などと、ぼくの想いを見つめてくださることと思います。

でも、実際のところ自分の胸のうちでは、先生だったからだととかじゃなくて、一人の張明澄と呼ばれた「人間・張明澄」について思うことのほうが多いです。

というのも、先生と弟子の関係が先生の死後に残され、当然、我々弟子としてはそれを背負って行くわけですが、高名な先生と、その弟子という関係の中に自分を埋没させるのではなく、そのような世間での評価や世間が思う関係とかじゃなくて、そんな世俗的な事柄や伝統だの流派だのを越えて、見つめ続けているもの、常に意識してしまうものがあります。

先生が分っていて、自分が当時、見えていなくて、わかっていなかったかも知れないこと。

色々知りたかったこと。全ての時間が止まって、歴史が不在になるということ、もう戻らない過去のこと。先生が残した想い。見つめ続けたもの。

幾つもの世界!世界!世界!

それが幾重にも張り巡らされていて、その会話が、まだ続いているという事実。

この旅が終わっていないから、歩き続ける生あるが故にできる探求を少しでも多くしたい。

そこには、対話だけが残されて、そして、その対話に応える形がここまでの歩み、このブログを始めてからの日々に連なっています。

それは、巨人・張明澄の世界をもっと見たいという想いと共に続いているのだと思います。

だから、この会話が先生と弟子という偏狭な範囲の中では、不可能なことであり、私は「人間・張明澄」を生き生きと見つめてしまうのです。

そして、途切れることの無い対話は、多くの示唆と暗示を含み、繋がりが続きます。

例えば先日は、初めて電話で佐藤六龍氏とお話もしました。

対話と繋がりが、そういった状況を生み出しているのではないでしょうか。

歴史の不在が、新たな存在を生み出し、我々の魂もまた循環していることを痛感いたします。人が生きて行き、たとい去っても、残されたものは言葉と文字だけではないのです。

人はわかり合えないから、わかり合いたいのかもしれません。

そこに、先生と弟子などから世間で想像されるように現れてくる人間関係で臨むのではなく、あくまで、人間と人間として生ある表現をぶつけ合いたい。

そんな世界でしか、少なくともオレは生きることができない。

そこには、一切の権威を排除して、素の人間である「オレがオレであるから」と、自分の道理を説きたい。そう、一人の「人間・張明澄」を見つめ続ける者として。そこには、「弟子だから」などという主張や情けない権威などは一切が必要なく、そんなものが介在してはいけない権威を排除した世界で自分の主張を表現したい。

一人の人間として、「人間・張明澄」をより多くの人に再考してもらいたい。

追伸
ちなみに、鴨書店さんはとっても良い人たちです。

比べて未だに先生の悪評を垂れ流す原○房は気が狂っているとしか言いようが無い。そんなに捏造した悪評を書店に訪れるお客さんに流したいならば、「張耀文」「張明澄」と書かれた本を一切売るなよ!

先代から、先生の名前を冠した物を売り続けてその本のおかげで少なからぬ利益を上げて、そのお金で育てられたくせに恩も義理も無いのかこの本屋の店長は人間が腐っている。

山道様

コメントありがとうございました。

>人はわかり合えないから、わかり合いたいのかもしれません。

私も確かにそう思います。

わからないから、理解できないから、と言ってしまえばそこで終わってしまう。たとえ亡くなった方の想いでも、もう声を聞くことができなくても、その思いを汲むことは出来る。その方が生前、何を見て、聞いて、理解しようとしていたのか?その気持ちがあるからこそ、人は人を大切にしていこうと出来るのではないかと思っています。

私も、出来ることならその声を聞きたいと亡くなった方に対して思ったことがありました。忘れることが供養なのでは?と思っても、どうにか真実を知りたいと思うこともありました。しかし、生きていく中でその人に教わったこと、それを生かしていくことも大切なのではないかと思うようになりました。

張先生と、人としての繋がり・・・。そういった本来の想いこそが生きていくうえでの糧となり、また未来へと先生の想いが紡がれていく。歴史を知るということはそういうことかもしれないですね。先人の成し遂げたことだけではない、「人」としての生き方を知る。そういう生き方をされるのはただ通り一辺倒の気持ちでは出来ない事かと思います。

これからも応援しております!

敬具

nanasyさ~ん

通信講座のテキスト作りに追われて、すっかりコメントが遅くなってしまいました。

人はこの未来に爆発的な可能性を持っています。

ただ、自分で自分の可能性を限定してしまうことが悔やまれてなりません。

それは忘れることではなく、背負って行くことから始まるのだと思います。

>忘れることが供養なのでは?と思っても、どうにか真実を知りたいと思うこともありました。

真実はどんなに時間をかけても知るべきだと思います。

辿りつかない真実への道を心に残して進むということは、途切れてしまうことであり、それはとても悲しいことなのです。

というのも、忘れてしまうことのほうが悲しいと感じたら、それが正解なのではないでしょうか?それが、本当の供養なのではないでしょうか?

少なくとも、ぼくは忘れてしまうことが悲しい。

だから「とても、悲しい」と自分の痛みを素直に肯定できる。隠して忘却させて、自分を否定できないから。

その痛みが、ぼくを走らせ、その悲しみが、ぼくを練り上げている。今も。

つまり、忘れないで刻んで生きたい。それがどんな痛みだとしても。忘れるという安楽な薬で意識を薄れさせることなどできない。

自分を被害者や犠牲者だと決め付け、そこから逃げるのではなく。その痛みを受け止めたい。そして肯定してあげたい。

そう、その痛みがなければ自分のいまある存在をとても肯定できそうにないから。だから、そんな数奇な運命、皮肉な運命にも笑顔で向かい合えなくても顔を背ける事などできはしないのです。

どうか、nanasyさんも凍えたからだの半身(思い出)を抱きしめて、暖めてあげてください。

どんなに願っても、祈っても、声がきけなくても、そこにその場所にその人は、まだ見えるから。自分を騙してまで、忘れさせることに意味はないのです。

だから、nanasyさんはまた会えるでしょう。

こんなひとかけらの慰みしか言えない自分をお許しください。

誰もが大事な人に逝かないでほしいと切に願う。

でも、残された我々にできること。

もう止まってしまって、更新されなくなった時計と歴史を背負って、そこから前に進むことではないでしょうか。

そうやって想いは紡がれて行くのだと信じています。

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こちらにお集まりの皆様に是非ご紹介したく書き込みをさせて頂きました。

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もしご迷惑でしたら、削除ください。
よろしくお願いいたします。