張明澄先生の六回忌

Img_7328Img_7358  員林の町はのどかで、多分何年経ってもあんまり変化無く、どこか発展するのを嫌がっていて、のほほ~んとしています。

 
 そんな町が決して嫌いというわけではなくて、どこか落ち着いてしまい。台湾に戻ると、必ず寄りたくなる場所となってしまいました。

 先生に今年ご報告しなくてはならない内容は山積みですが、既に仙崖境を越えられた先生にご報告してもご迷惑だとは思いつつも、今日は特別にご報告申し上げます。

 張先生。張先生のお兄様の張明彦様も大変お元気にしております。執筆にものすごく力を入れていて、その書く量と速度は尋常ではないです。いつも、原稿をお分けしていただき、武狭小説はとても面白いです。今年出展されている文学賞関連の受賞を今か今かと心待ちに第一報を待っております。

Yojotaikan_coverImg077  また、お兄様から教えていただいた方剤には、とても助けられております。先日も、漢方薬の農薬問題と輸入時における問題を指摘した『自由時報(10月1日)』のありがたい記事も送ってくださり、大変お世話になっております。

 今年は、お兄様からのご指導もあり『養生大観』を世に出すこともできました。

 

Img_4020  私にとっての今年も感慨深く、先生の国小からのクラスメートであり、朋友でもあった鍾進添老師に、拝師を許可され内弟子にしていただきました。全ては、張明澄先生のおかげであります。そして、山道帰一ただいま猛勉強中でございます。

09730_003  鍾進添老師のように台湾でここまで研究されている五術の専門家はいないのではないでしょうか。台湾でいないということは、世界でもいないということですよね。一重に、先生の持つ仁徳よって、鍾進添老師に内弟子の列に加わることを許可され、これも先生にお礼を申し上げなければなりません。

 
 先生が仙崖境を越えて、早くも六回忌を迎える本日ですが、弟子の気づきから述べさせていただきたいと思います。

 「人の魂は時代も場所をも超えて繋がりあえる」ということが、自分の中で拡がりを持ち始め、今その真の意味がわりかけてきました。東派ではこれを「遊魂」と呼び、伝人であった兄弟子の玉靈大仙しか伝授もされなければ許可されない部分であり、私にはその資格がないのは重々承知しております。

 ですが、探求することをやめられません。

 私はこのまま探求を続けてよいのでしょうか?

 それが背くことになるのならば、すぐにでもやめますが、「自分で考えろ!このバカ」とか、言われそうなので、この答えは自分で明かすということでいかがでしょうか?

 残された我々弟子一同が今できること、それは明日をも決められない自分になりきるのではなく、明日に繋がる今日を過ごしてゆく日々の中に答えはあるのだと思います。 

 連綿と流れる時間に断続は無く、もし途絶えることがあるのならば、その背景で人の意識がその繋がりを手放してしまうからだと思います。

 未来に繋がる糸となり未来を紡ぎたい。

 もし、この現代に流れる時代の潮流が、もの申さずとも良かれ時代ならば、黙って社会の一部となり、沈黙をし、社会に貢献すべく、町医者にでもなって、幸せな日々を過ごしていたかもしれないと、員林で医業を営んでいた張家と張明澄先生の想いを辿りながら、自分に重ね合わせて思うこともしばしばです。

 しかし、現代において医者として自分を考え一番深く思うのは、この病んだ社会と時代を治療せずして、一体何を治療するのだろうという素朴な自己欺瞞でした。

 化学物質過敏症、シックハウス、アトピー、アレルギー、喘息、花粉症、増殖するがん細胞のように転移する病の背景にいつもあるのは、「踏み外した世界」でした。

 「こんな世界が見たくて大人になったんじゃない!」

 と、子供の自分に戻れたら叫ぶでしょう。

 自然との対立、派生する異常なウィルスが見せた都市構造の弱点。都市で暮らせなくなった全人口の10%を越すといわれる化学物質過敏症の人たち。私は化学物質過敏症の人たちを患者と呼びません。それは、未来に対して警告を持った超自然的な存在そのものだからです。

 というのも、彼ら彼女らのセンサーで感知できるものの基準は、何一つ間違っていないからです。

 地球上に存在する物質の成分は、100数種類の元素によって全て化学式で表すことができ、全ての物質の構成要素である100数種類をいじり配列と化合を変えた結果生まれてきた様々な化学物質。しかし、この地球は有限であり、循環を繰り返す水は人間の魂のごときものであり、地球内における水の循環を肯定し、人間の心が無限であることを認める共通認識の上に立てば、我々の魂もまた循環しているのではないでしょうか。

 それは、誰かが流した涙が果てしない時を経て、誰かの身体に根付く生命の一部となって甦る。そして、誰かが流した涙の感情の記録は誰かの記憶に宿り、その感情は伝染するかのように誰かの心に残り続けて、この涙とこの残った記憶が再び出会うのならば、水のごとき循環する魂の生まれ変わりを誰が否定することができるというのでしょうか。

 もちろん、涙は分解され塩分と水分に分離して、その水分も悠久の循環の中で、姿かたちなど留めることは無いでしょう。

 そのように一粒の涙を追う冒険とは、一つの魂を追うがごとき探求であります。

 私はこの薄汚い都会に残され、躓いたり転んだりしながら、そこから目を背けることなく無味乾燥の埃に塗れて徘徊しています。

Img_7674 それでも乾くことの無いこの心は、一粒の涙を老師に捧ぐ。

                         山道歸一(清松) 敬上

 
 

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