新天地1~永平寺

Img_8810  あけましておめでとうございます!

 旧正月を基点とすることが多いので、2010年2月14日にならないと、まだまだ実感が涌かないですが、日本では2010年に切り替わりました。

Img_8914  今年の正月は、お仲間たちと色々な場所を取材と選地を兼ねて回っていました。雪が積もった高速道路にスタッドレスタイヤを装備して入ってゆく。

 雪景色は良いものですな~。心が洗われるようです。

Img_8819  曹洞宗大本山永平寺にも行ってきました。永平寺の開山道元禅師(1200年-1253年)は、貞応2年(1223年)24歳の時、栄西の弟子明全和尚と共に求法のため入宋し、約五年後の安貞元年(1227年)秋に帰朝しています。

23   約五年間の宋への留学の時間は、道元禅師が色々なものを勉強しており、もし、永平寺の地を定めたのが、道元禅師だったのならば、道元禅師は明らかに風水を学んでいたのだと感心してしまいます。それは、永平寺を見れば明らかであり、その巒頭構造は風水の理にかなっています。
 
Img_8825Img_8884 そして、このような深山深雪の場所でも、耐えられる造り込みを陽宅建築に施しています。水の集まりやすい山間にあって、水を逃す水路が幾重にも作られており、その技法にため息をつかざるをえませんでした。

Img_2790_3Img_8831_5   今まで、色々な寺院に行きましたが、大半がただの観光施設と化して、金運(お賽銭箱)と陰宅(葬式仏教+霊園業)のためのものであり、風水の良い場所でも、金運風水(笑)と陰宅風水(笑)のみが顕れることが多いのに対して、ここには確かに仏教が生きている息遣いを風水と共に感じることができた数少ない素晴らしい場所です。

  
 一つの寺として、組織として秩序や階級があるのは会社も寺も同じですが、教えの中で結びつき、修練の有る正しい生活が営まれる。それは、現代人が見失ってしまった何かがあるのです。

Img_8840 つまり、「何のために生きるのか?」が、迷いの中に埋没しているのではなく、迷いを認めたうえで力強く開拓していこうとする精神。ここには、未だに四法印が根底に息づいているのを感じ、涅槃寂静を目指す僧たちの生活が見て取れる。

 〈一切皆苦〉 迷いの生存におけるすべては苦である
 〈諸行無常〉 あらゆる現象は変化してやまない
 〈諸法無我〉 いかなる存在も不変の本質を有しない
 〈涅槃寂静〉 迷妄の消えた悟りの境地は静やかな安らぎである

6  そして、一見するとただの厳しいだけの環境が、実は道元禅師の目指したユートピアが反映されていて、ここはに素晴らしい風水が施され、山気が溢れている。道元禅師の修行僧たちへの思いやりに溢れているのです。

 

Photo  清代の風水師・葉九升著『山法全書』によると、この様な龍穴は「弓脚」と呼ばれ、その中でも、青龍砂が強く厚く「太陽脚先弓」と呼ばれる龍穴の構造を持つ、象意(意味)は「福が最も濃く現れ、この星(龍穴)は極めて快く発達する。」とされる。*もちろん、判断基準はこれだけではない。
  

Soutou_founder_dougen  宝治元年(1247年)8月、北条時頼一族の北条重時や波多野義重公の請を断ち難く在俗教化の為に道元禅師は鎌倉へ下向し、約半年間名越の白衣舎に在って説法され、1248年3月に永平寺帰山された。

 永平寺に帰山し、心境を説かれた一言がこの場所を物語っているのではないだろうか。

   今日山に帰り山気(さんき)喜ぶ、
   山を愛するの愛初より甚し         『永平広録』巻三
                

1116  この寺は、托鉢をし自らの糧を自ら得なければならない厳しい修行僧に福あれと思いやる道元禅師の太陽のような暖かい光に包まれている。それが、本当の風水だよね。

 たとえ、この場所を選んだのが道元禅師でなかったとしても、このような実態こそ正しく風水をつかった姿であり、ここには清く正しい風水が禅の教えと共に根付く。

 そして、永平寺を開山した道元禅師の太陽のような修行僧を思いやる熱い気持ちに胸を打たれる。

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