「中国における思想と仏教」

            中国における思想と仏教

                         序文

30974004  インド仏教・日本仏教を中国仏教と比較しつつ、中国仏教の本質を探るという今回の課題にあたって、私なりの勉強不足もありまして、幾分か主観による部分をあらかじめご了承願いたいと思います。 偽経を論じるにあたっては、あまりの膨大な量のため、すべて目を通すことままならず、私なりの推論に基づき、中村元さんの研究観点に寄ることを前述させていただきたいと思います。

 このエッセー作成にあたって、常日頃から私が勉強している仏教学なるものが、中村元さんの影響無くして語れないものがあり、私自身の見解に影響を与えたという意味でも、中村元さんの言葉を引用する部分が多いことをご了承ください。もちろん、私なりの見解の補足に引用部を挿入させてもらいました。

 中国仏教が一つの独自の宗教という観点に立ち、論じていくための補足として若干エッセーの趣旨とそれる部分がありますが、その部分こそが中国仏教の特異性を明らかにする試みと見てくださると光栄です。

                         本文

Satori  インド仏教とは一体どのような概念をもってして、他国に布教されるのにいたったかを明確に考えてみてみたい。まず、第一に釈尊の書き残した経典は一冊もないという点を考慮したい。そして、結集が行なわれ、釈尊の言行録である経典ができあがっていったが、その量は時の流れと共に註釈や新説を交えて、膨大な量に増え部派分裂や大乗仏教運動を通して原始仏教という原形は、やがてインド本土においてでさえ、姿形を変えた。

 しかし、経典や宗派がいくら、増えようとも"仏教"として永遠普遍なる本質を釈尊がもたらした(dharma)に求めるならば、法がその本質的性格を保ちながらその時のその時代の思想背景に合わせて、表現方法のツールとして、もしくは方便(upaya)として様々な経典や宗派がインドにおいても産まれたのだと思われる。これは、言語というものを一つの表現ツールだとするのならば、日本仏教にも中国仏教にも同じことだと思われる。この点は後ほど論じてみたい。

 そのような点を考慮に入れて、仏教とは釈尊がもたらした法灯(この場合の意味としては、仏になるための永遠普遍の真理という意味を指し、釈尊という人物が実在したことの意味という点であって教説だけではない)を持ってして、本質的仏教だと考えていきたい。

R0008  仏教伝来以前の中国思想とは、すでに独自の文化の隆盛をみていたと思われる。孔子が編纂した史書の『春秋』(BC.480年頃成立)には魯の隠公元年(BC.722)から哀公十四年(BC.481)に至る十二代・二百四十二年間の史実が書かれている。

Untitled もちろん、『春秋』には、この二百四十二年間に仏教が伝来していたと思われる記述はない。つまり、仏教の中国到来は孔子以後ということになる。

 そして、孔子以前の時代背景としては、宗教と政治が結びついた国家ができており、人民がよく生き、徳を養えるための教えがあったといえるのではないだろうか。孔子自身、堯舜時代を誉め讃えている。

119594408365916410820  私は真に人間に価値ある教説とは、その時代に平安をもたらしてこそ偉大な教えであると考える。だから、仏教伝来以前から中国には優れた思想、もしくは法に連なるような教えがあったと思う。中村元さんは、この教えという部分を老子の道(tao )にあてめて、次のように説明している。

 
「中国仏教にはある一貫した基本的正確が認められる。それは、一言でいえば、中国仏教は<道 タオ>の宗教であるということであ。」
 

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 以上までの考えを統合すると、中国仏教が格義仏教といわれることがみえてきたように思われる。

 中国仏教はインド仏教を受け入れる下地があり、その社会風土の中には黄老思想にしろ老荘思想にしろ、一つの流れがあり、インド仏教の原典に即して翻訳するという作業自体に、当時の意識潮流が繁栄されるのはごく当然のことである。
 

 それに、原典に即して直接その教理を理解するよりは、中国古典の類比において仏教教理を理解しようとするほうが、当時の然るべき地位を持つ識者達に理解されやすく、いい教化にもつながったのだと思われる。そして、仏教の基本概念として先程述べた法灯がその教えに繁栄されているかどうかが一番大事な点であったのではないだろうか。

 
Move  中国の偽経問題を考えるにあたって、私からいわせればインドにある経典自体に、後から上積みされただけの経典が沢山あったと思われ、そのような経典も偽(ニセ)経典としての偽経なのではないだろうか。そして、偽経の意味はサンスクリット本その他から翻訳された経を真経といい、その他を偽経と呼ぶのだから、まるでイカサマな経典でもインドでつくられ、サンスクリット本として中国に伝来したら、それが真経と呼ばれる点を考えると、果たして、本当の意味での真経とは何を指すのだろうか。

Nehanzo  釈尊入滅後の宗教団体としてまとまりを持った様々なセクトの思惑の上での真経であって、一体何がより釈尊がもたらした法灯に近いかを当時の中国の仏教学者たちは論ずる手立てを歴史を遡って考えることと、インドのセクト(宗派)を通じて判断することに委ねたのだろう。

Nehando05B0102720_17194940   つまり、中国における偽経よりも、インド本土における経典群が後から作られた上積み経典の膨大さを考慮に入れれば、中国の風土と独自の文化思想を持って産まれた中国仏教自体一つの宗教であると考え、中国の偽経を中国仏教からかけ離れたものであり、さらに中国仏教が仏教でないと考えるより、むしろ中国仏教がインド仏教ではないと考えられる。

 そして、前述した法灯の意味を持ってして仏教とするならば中国仏教も仏教であるといえるのではないだろうか。ようするに、インド仏教の中国における影響が中国風土に根付く形で法が容姿だけを変え、その性格を維持して、誕生したのが新しい宗教としての中国仏教であると私は考える。

 経典翻訳にあたっての言語とは、その国の社会風土とその国の思想的フィールドが背景にあってこそ、人の意識に通ずる意味が出てくるのだと思う。

Saussure  この点において、スイス人言語学者のソシュール(1857年-1913年)は次のようにいう。
 
「言語も一つの社会性度であることは他のすべてとかわりないのであるから、我々が言語の用具として声音装置を用いるのは、偶然であり、たんに便宜のためである。」
                 『一般言語学講義』 フェルディナン・ド・ソシュール

 
 言語が社会での意味をもたらすのにあたって、原典訳の翻訳よりも言語を道具として、活用するほうが、その時代にあった法灯をもたらすことができるのだろうと思う。たとえば、般若経の空の思想を老子の無の思想に類比して、解釈を試みたりするのが、好例だといえよう。

 つまり、偽経とは言語を道具としての感覚で用いて、法を学んだ人が、原典からの翻訳での難解な意味(この場合、風土の違いがあるため)の真経をもっと容易にして、庶民にも人間のあるべき姿を法が照らしだそうとした試みであるようにかんじる。

 中村元氏いわく、

「偽経はかけがえのない価値を有する。また民衆に対する教化力は大きかった」

と言っている。我々が当時の理解と認識を持って、釈尊の法の意味に対して、明確な定義を学術的に設けるのは事実上は不可能である。

87262701  もし、それを真経に求めるのならば、真経と言われるもの自体を問い直さなくてはならないであろう。それは、あたかもフランツ・カフカ(1883年-1924年)の次のような句を連想させる。
 
  
「諸宗教の不条理…開祖は立法者の手によって律法をもたらしたが、その律法は、信徒が立法者に律法を告知せよと言う。」

 
 以上に述べたように中国仏教とは本質的に原典から遊離した教理の歴史である格義仏教であり、そして中国における偽経こそ中国仏教の正式経典といっても過言ではないだろう。そして、先程から述べているように、私は中国仏教が独自の教理会釈法を歩み、独自の仏教を成立させたと考える。

 このような見解の事例として、中村元さんの次の言葉引用したい。
 

「中国仏教がインド仏教の単なる継承ではないことを示す具体的事実としては仏教学における儒教経典解釈学の全面的な導入、訳四百にも及ぶ偽経の経典の出現、禅宗における清規の成立と語録の尊重などが挙げられる。」

 
 中国仏教とは、中国思想に基づく中国固有の宗教であり、仏教到来以前から中国には法と思われる思想(韓非子の法の概念)なり、黄老荘にみられる哲学としての流れ(中国思想)が確固としてあり、そこにインド仏教の影響を受け(釈尊の法の影響を受けて)一つのまた新しい思想の流れが誕生したと考えられる。

 法が時代をつくってゆくのか、時代が法をつくっていくのか?


『岩波仏教辞典』より用語解説-------------------------------------------------

【結集 けつじゅう】
仏滅後、異論を止め、教団を統一するため、代表者が集まって仏陀が遺した教えを集め、経典を編集したこと。

【法 ほう】[s:dharma]
 dharmaは〈保つ〉(√dhr)という語根から成立した言葉で,〈同じ性格を保つもの〉〈法則〉〈行為の規範〉などの意味がある.この語が仏教に採用されて重用され,種々の意味に用いられた.それらを整理すると,1)法則,正義,規範,2)仏陀の教法,3)徳,属性,4)因,5)事物,の5種となる.このうち,仏陀の教法と,事物とを〈法〉ということは,仏教独自の用法であり,ここに仏教の特色が示される.ちなみに,中国古典では〈法〉は刑罰・制度・法律などを意味し,これを最も重んじたのは韓非子(かんぴし)らの法家思想家であった.

【方便 ほうべん】[s:upaya]
 接近する,到達する,という意味の動詞から派生したウパーヤが対応サンスクリット語であり,衆生(しゆじよう)を導くためのすぐれた□教化(きようけ)方法,巧みな手段を意味する.方便は真実と対になる概念で,衆生に真実を明かすまでの暫定的な手段を意味する.この方便の思想は,法華経において特に重要視される.つまり三乗(さんじよう)(声聞(しようもん)乗・□縁覚(えんがく)乗・菩薩(ぼさつ)乗)の教えは仮の教え,方便であって,真実には三乗の人がすべて仏となることのできる唯一の教え,一仏乗(一乗)があるだけであると説かれる.

【偽経 ぎきょう】
 《疑経》とも.中国や朝鮮・日本でつくられた経のこと.サンスクリット本その他から翻訳された経を〈真(しん)経〉〈正(しよう)経〉と呼ぶのに対し,翻訳経とはみなしがたい経をいう.偽経は古く道安録(綜理衆経目録,4世紀)でとりあげられて以来,歴代の経録編纂者たちから厳しい批判を受けつづけた.翻訳仏典の目録を編むという彼らの任務からすれば,経の真偽に特別の関心を払うのは当然である.したがって仏説の真実性を晦(くら)ます偽経の存在を決して容認することなく,その摘出と排除に全力をつくした.しかし偽経は雑草のごとく増殖の一途をたどった.道安のころ26部30巻だった偽経は,南北朝時代になると46部56巻に倍増し,さらに隋代には209部490巻,唐代には406部1074巻と飛躍的にふくれあがった.これを開元釈教録の入蔵録1076部5048巻と対比してみると,偽経の隆盛ぶりを推知しうる.

【偽経(積極的評価) ぎきょう】
 仏教の伝統的立場からは百害あって一利なしと見なされてきた偽経であるが,難解な仏教教理に縁のない庶民が仏教に何を期待したかを具体的に研究することができる点では,偽経はかけがえのない価値を有する.また民衆に対する教化力は大きかった.しかし偽経は入蔵を許されなかったので,大蔵経の中には稀にしか存在しない.幸い敦煌(とんこう)出土仏典には散逸をまぬがれた大量の偽経が含まれている.また朝鮮や日本でつくられた偽経は,それほど数は多くないが現存している.

【格義(格義仏教) かくぎ】
 時代的には,西晋(280-316)末から東晋(317-420)にかけて盛行し,老荘玄学(老荘思想)が主流を占めた思想界の状況を反映して,老荘の〈無〉の思想によって般若(はんにや)経典(□般若経)の〈空〉の思想を解釈することが流行った.西晋末の竺法雅(じくほうが)は,豊かな中国古典の教養を活用して仏教に暗い知識人を教導し,格義仏教の端緒を開いて仏教の知識人間への普及に貢献したが,やがて原典から遊離した格義による〈空〉義研究は多くの異論を生み出すようになり,釈道安(しやくどうあん)の批判を招く結果となった.その後,5世紀初頭に鳩摩羅什(くまらじゆう)によって竜樹(りゆうじゆ)の般若教学の体系が紹介されるに及んで,格義仏教はその歴史的使命を終えた.しかし,中国仏教はその本質において終始格義的仏教であり続けた.

【大乗仏教(教団の形成と信仰) だいじょうぶっきょう】
 紀元前5世紀あるいは前4世紀にゴータマ・ブッダが死去したとき,その遺体の火葬,遺骨の採集,遺骨を納めるストゥーパ(塔)の建設と供養はすべて在家の信者によって行われ,出家の仏弟子たちはこれに関与しなかった.このストゥーパに集まり,これを崇拝した在家者たちがしだいに教団を形成し,部派仏教の教義を借用し,やがて指導者層には出家となる者も出てきた.小乗教徒は,ゴータマ・ブッダの逝去から遠い未来に弥勒(みろく)が成仏するまでの間は仏陀は存在しないと考えていたが,大乗教徒は現在にも十方の世界に無数の仏陀が存在することを信じて,いわば信仰の仏教を発展させた.彼らはこれらの十方諸仏に向かって,自己の罪を懺悔し,教化を請い(勧請(かんじよう)),諸仏やその仏弟子・信者たちの善行を讃歎して喜び(随喜),自他の善行の功徳を諸仏にささげる(□廻向(えこう))という新たな儀礼をも作り出し,ヒンドゥー教や□ゾロアスター教の有神論の影響をも受け,さらに独創的な空(くう)の思想をも展開した.

【大乗仏教(大乗経典の成立) だいじょうぶっきょう】
 こうして紀元後1世紀以降に般若経・維摩経・法華経・華厳経・無量寿経等の大乗経典(第1期ないし初期大乗経典)が編集され,3世紀には竜樹が中論等を著して空の思想体系化に努め,4世紀には勝鬘経・涅槃経などの如来蔵経典および解深密経・大乗阿毘達磨経の阿頼耶識(あらやしき)経典(第2期ないし中期大乗経典)が編集された.5世紀には無着・世親によって瑜伽行派が生まれ,中観派と対立したが,経典としては如来蔵と阿頼耶識との統合をはかった楞迦経や大乗密厳経(第3期ないし後期大乗経典)が編集された.6世紀ころから密教化も進み,7世紀には大日経・金剛頂経などが作られ,金剛乗が成立した.ただし金剛乗は,自らを大乗と区別する意識をももっていた.また本来は小乗の一学派であった経量部は,インド仏教の後期には大乗の一学派とみなされるようにもなった.

 

<エッセー集>

エピローグ:「荷物と心の整理」

「空海の文化」

「中国における思想と仏教」

「後期密教における力の顕現」

「神智学協会とインドにおけるユートピア」

「そして、世界は作られている」

「自然への道」

*これらのエッセーは12年前に書かれたものです。まったく加筆、訂正していません。

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