『養生大観』序文

『養生大観』序文

 養生ということで、日本国内においては実に定義が様々であるが、まとまった見解というものを未だ見ない。

 それは、中国語と日本語の文法構造や、文化差異による部分も大きいことと思われる。中国語で養生と言った時に、その言葉に宿る身体観もさることながら、複雑な構造と奥行きを持たせて解釈できる土台性を感じる。しかし、日本語では述語を文末に持ってくる文法構造もさながら、養生という言葉の体言を修飾する修飾語を想起してしまいがちで、その組み合わせによって養生という言葉は限定されてしまう。

 そういった意味において、日本における養生という言葉は複合語のように用いられて然るべきだったのかもしれないが、養生という言葉は様々なメタファーと共に一人歩きしてしまった観が否めない。そして、養生という言葉の背後にある日本人と中国人の身体観の相違は同じ漢字二文字ではあるが中国語と日本語ではまるで別物であるという違和感さえ感じた。

 本書、『養生大観』は張明澄記念館にて開催されている講座の一環として、執筆を必要とされた。それは、明澄透派五術の「山」に属する養生というものを指し示すものとして執筆に勤しんだが、どうにも、養生という言葉の言い回しが腑に落ちない部分があり、その辺りを徹底して、縦横無尽に養生という言葉に迫ってみた。そのため、本書は明澄透派という区分の養生という限定された範囲に収まらない。それは、五術「山」に包括された範囲だけでは当然収まらず、道教、道家、医家、仙道家の定義と様々角度から紐解こうと試みた。

 また、本書を学術的な構成に従うべきか、実際に施術や養生を必要としている人々への実践の書として書き上げるかを自問自答しながら書き綴ったが、結果、学術書というよりは実用書という仕上がりになったことを述べておきたい。

 本書が明澄透派の講座テキストを当初意図していたため、明澄透派の「山」に関する知識は詳細に扱った。特に、「明澄透派の気功」は、張明澄先生の翻訳原稿を使用させていただき、「房中術」については、張明澄先生の兄上様である張明彦氏から口授された内容を母体としている。また、小生が張明澄先生より教わったものとして、東派仙道の養生の一部も公開させていただいた。

 こうして振り返ると本書は張家の家伝の知識、知恵をたくさん収蔵することができ、それを嬉しく思う。

 この本を開くとき、自分がどのように養生に取り組んだかを思い出すだけではなく、数え切れない張家から頂いた教育及び教訓を思い出し、感謝と共に、自己に対する戒めにもしたい所存である。

 そして、本書を何より張明澄先生こと南華真人と、年若く愚鈍な私に養生を指導してくれた真陽子の二人の先生に最大の感謝と共に捧げたい。

                              戊子年初秋            山道帰一

 

Yojotaikan_cover<講座資料>

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