プリズン・ブレイク

 えっと、昨日、阿藤大昇さんの「百人斬り」が終了したので、通常、ここでこんなタイトルが出てくるなんて、「えっ!? どうしたの?」と、昨日会場に来てくれた皆様は意外に思うかもしれませんが、阿藤さんの「百人斬り」の意味する意図は、「プリズン・ブレイク」にありました。

 それは、阿藤さん自身の運命に対する「プリズン(限界概念)・ブレイク(突破)」であると共に、皆さんに提示し、解説する四柱推命の「運命の命式(プリズン)・破壊せよ!(ブレイク)」という前代未聞のパラドックスを阿藤さんが仕掛けたわけです。

 阿藤さん自身の運命に対する「プリズン・ブレイク(限界概念を突破せよ!)」と、
 皆様に対して阿藤さんが詠んだ「プリズン・ブレイク(運命を破壊せよ!)」

 この二つが、「百人斬り」が意図していたものでした。

 それは、漢(オトコ)、阿藤大昇が、仕掛けた戦いでもあったのです。

 いわば、「運命を自ら創出しなければいけない!」という挑戦だったのです。

    自分で始めた戦いだから止められない。

    自分ではじめた戦いだから逃げられない。

    自分で始めた戦いだから休めない。

 これは、一人一人の運命にも言えることなのではないだろうか?

    向かい合ったら、もう止まれない。ヤルかヤラレるか。

 それを戦いと解するものもいるだろうし、愛と考えるものもいるかもしれない。

 そこにあるのは、絶対的対象性。そうして、その戦い、その愛を越えるには!?

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 漢(オトコ)、阿藤大昇が挑んだものの大きさに絶句する。

Cimg3383 休み無く、一人一人と阿藤大昇は、斬り殺したのだろうか?愛したのだろうか?

 休み無く、己の武器を頼りに、戦場で最後まで奮闘する勇者に胸を打たれた。それは、絶対的対象性を通じて、阿藤大昇の心から色々なものが斬り落とされて行く瞬間でもあったからだ。そして、豊かさは現れたのだ。

 どうか、長いが、親愛なる読者よ!最後まで読んでください。

 これは、阿藤さんに許可なく小生の知る限りの情報と読む限りの阿藤さんの心を表現したものです。

 一人一人と現れる鑑定依頼人たち、それは、阿藤大昇の心に映し出される対象性。その時、阿藤大昇は、自分の心と向かい合っていた。

 眼前に広がる田畑、阿藤大昇は、長野県の寒村で農業を営む家の次男として生まれた。肉体的な体躯に恵まれ、高校時代は、体操部に所属し、運動能力の高さを誇った。それは、阿藤大昇の農家の息子としての反発だったのかもしれない。小作人として限定された土地、何より「限定された世界に住みたくない!」。

 もっと、世界を知りたい。それは己の肉体を鍛え上げ、躍動感豊かに体操で表現することから始まり、自己の見聞を広めるために、東京に出てきて、明治大学では、フランス文学を研究する。そこには、フランスという世界的に見ても肥沃な大地とそこから生まれてくる生活の営みと文学。農業から離れた様に思えても、どこかで、農業を忘れきれない阿藤大昇の孤独がある。

 搾取されるだけ、搾取され、最後は農○で買わされたトラクターや肥料、農薬のために、借金まみれにさせられて、奴隷のように生きなくてはならない両親の運命を見ながら、自分に対しても決められた運命を垣間見た。「運命とは定められたものなのか?」、定められた運命に贖う阿藤大昇は反旗を翻し、畑で取れる作物の豊かさを表現することも許されなかった農○の奴隷の世界とは違う、世界を夢見た。

 そして、自分で働きながら、大学を卒業し、フランス料理のシェフになった。畑の恵み、豊かさを料理を通じて表現したかった。それは、生産者の表現が許されない寒村農家に生まれた自己の運命に対する戦いだった。「表現したい!」、人間として等しく平等に生まれたからには、「表現する自由が与えられても良いのではないか?」、僅かでいい、「少しだけ自分を表現させてください。」。

 家族の運命、自分に与えられた運命。自分を生かしたい。そして、家族との絆と家族の運命を強く想うが故に生まれた選択肢、「料理人になる。」、「表現したい!」という強い想いだけが、阿藤大昇の都会での苦しい生活を支えた。一族の運命を大きく変えるための挑戦。都会で挑んだ自分の運命に対する戦いは、楽なものではなかった。

 料理人たちが使いまわす、厨房用の長靴には、名前は書かれていなかった。そこにも、運命の象徴は現れている。寒村で取れる作物にも、名前は無く、農○とだけ書かれているように。そして、皆が同じように、長靴を履き回す。

 阿藤大昇の両足には、いつの間にか、誰かの病気が感染していた。激しく体力を削る立ちっ放しで働く料理人にとっての戦場である厨房で、阿藤大昇は、泣き言一つ言わなかった。

 自分が作った料理、自分が表現したもの、お皿に載った小さな世界がお客様を笑顔にする。その笑顔が、阿藤大昇をどれほど元気付けたか。それは、阿藤大昇が人生を振り返った上で、至福の一時だった。

 ただ、至福の時間は長くは続かなかった。セットされた爆弾が定刻どおりに爆発するように、痒み止めの薬を黙々と服用した。阿藤大昇には、薬で自分を誤魔化していることはわかっていた。そして、その薬の魔法がいつの日か切れることも。

 数年間に及ぶ劇薬の薬を服用し続けた副作用として阿藤大昇の肝臓は、疲弊しきってしまい職場で長時間働き続けることが出来なくなってしまった。

 それは、家族との絆、家族の運命、そして自分の運命を思えば、思うほど悔しかった。「何一つ、変更を許さないのか!」阿藤大昇が都会で流した初めての涙だった。寒村で生まれ、小作農の次男坊が、自分の定められた運命に対して挑んだ戦いの結果は、惨敗であった。

 それ以来である。定められた運命というものに向かい合って、敗れたことが、阿藤大昇を運命学の世界へと導くことになる。探究心、研究心旺盛な阿藤大昇は、日本にあるものから中国に端を発するものを物色するようになり、中国占術に強い関心を示す。民間からの研究として、子平、奇門遁甲に関する文献学に基づくため歴史資料などを世界中の図書館に足を運び収集した。

 命・卜・相にまつわる多くの資料を研究する過程で行き着いた結論、「門派と呼ばれる学術集団だけが体系的な解釈を持ってる」、つまり、門派と呼ばれる歴史に密閉された伝統文化を有する人たちの間でのみ、中国占術といわれるものは縦横無尽に読み解かれていて、その伝統文化の世界は極端に閉塞的に閉ざされている。

 とりわけ特筆すべきは、世界中の図書館を調べ、手に入れた貴重な古文献たちも、張明澄(耀文)の持つ、明澄透派の伝書に遠く及ばないという事実を知ったことだった。阿藤大昇は、縁があって、張明澄先生と一時期において、色々と質問をすることを許されると共に、紫薇斗数などにおいては、貴重な原典資料である明澄透派「紫薇心得」などを世に問う契機を与えられる。
 
 当時を振り返ると、厳格で厳しい張明澄先生は、笹川良一の庇護の下にいれば安穏としていられたのにも係わらず(張明澄先生ウィキペディア参照)、その厚遇を辞退し、継承する学問を世に広めることで、自らの人生を費やしていた。

 中国占術のプロと呼ばれる専門職として、当時、駆け出しであった阿藤大昇にとっても、その分野で生業を得るのは、非常に大変なことであった。ただ、自分の定められてゆく運命の中で、足掻き、その突破口ともいえる張先生の教えが、どれほど阿藤大昇にとって貴重なものであったかは言うまでもない。

 しかし、そのような研究生活を続けるのは決して楽なことではなかった。そのため、阿藤大昇が生活するためには、やむなく貴重な資料を流布させたり、自費によって研究資料を公開しなければならなかった。生きて行くことが根底に無ければ研究をする生活など続けられはずが無かったのだ。

 その過程において、張先生としても、阿藤大昇を助けてあげたくとも、助けられない部分が当然のように生じ、二人は生き別れになってしまった。

 阿藤大昇が生きて行く過程で、当然、誤ってしまう部分もある。それは、阿藤大昇を世に出すために尽力したある人物との関係だろう。大恩あるその人との関係が、子平における解釈などの相違から、どちらが上などというつまらない論議に及び、生き別れになってしまったのも、阿藤大昇が自らの若気の至りと純粋に真実を追究して行く過程で生み出してしまった心に秘められた一つの悲しい出来事だった。

 今となっては、子平の解釈の相違やどういうレベルなどという区分けで子平を捉えるほど、単純な発想で物事を見つめる癖がなくなったとだけ、解釈を勤める小生が代弁したい。それは、この子平による「百人斬り」、「プリズン・ブレイク」の冒頭で説かれていること、そして、客観的に自己を振り返り、自分と出会うために始まったこのイベントと、それにまつわる者として、小生がここに筆を走らせていることから理解してもらいたい。

 阿藤大昇は、義理堅い人間として、ここで擁護させてもらうならば、若干の人々との関係で、いたらなかった部分があったのが事実だろうと思う。そして、長年、それが言い出せなかった阿藤大昇が言えなかった一言を心を読むことを生業とする小生のリーディング文章を信じてもらえるのならば、「申し訳なく思う。」阿藤大昇が、その人に対する謝罪も書かなくてはならないだろう。

 その後、ある有名な啓発団体の政治的なプロパガンダとして、ある宗教団体を内部崩壊させるために傀儡として、阿藤大昇が利用されたことは、阿藤大昇にとって屈辱的な定められた運命に利用されてしまう結果になった。「抜け出せない運命」、「踏みしだかれるだけの運命」に憤りを感じたのもそのころだ。

 いま、大層なホラを吹かせまくって、社会に何一つ還元することなく、子供の夢の延長と自分で作ったSF小説のエンディングに差し掛かり、死に掛けているその団体の会長さんは、死を眼前にした今際で、何を思うの?

 自分が踏みしだいて来た人々たち、小さな夢の欠片(カケラ)を思い出すの?

 楽に死ねないところが深い業を表現していて哀れだが、踏みしだかれた人々を思うならば、情けなどかけずとも良いだろう。結局、人間は自分で作り上げたプリズンをブレイクできないで消えて逝く。

 ちなみに、阿藤大昇は、そんな小物に恨みを抱くような小人ではない。

 その怪しい啓発団体との出会いは、純粋な阿藤大昇が都会という欲望が渦巻く狂気に巻き込まれた悲しい経験として胸に刻んだだけだ。そう、そうやって色々な想いが刻まれて、それを背負って行くところに、漢(オトコ)の後姿がある。

 思うがままにならない運命を思うがままにならないように生きてきた。そんな、阿藤大昇が、運命を「受け入れる」という発想「あるがまま」に出会えたのは、小生との出会いが関係しているのかもしれない。

 出会いは、人の運命を変える。

 そして、ぼくたちは共に誓い合った。「神さえも裁けない。」強い、強い、運命を己の思念で創出してやる!そして、他でもない「本当の自分」を取り戻す。

 運命に敗れ続けたぼくたちが、ボロボロのぼろきれの様になり、出会い、互いの穴をボロの薄着で埋めあうことで気づいた事実だった。

 そして、ぼくたちは、「運命は変えられる!」という結論に走って行くことになる。

 阿藤さんはその覚悟を出会ってからの半年後に、電話で打ち明けてくれた。そして、それは出会ったときに、ぼくが阿藤さんに言った一言だった。

 その覚悟に強い勇気をもらったぼくは、こうしてブログまで書くことになったが、今でも変わらない強い想いがある。

 それは、国家という運命に毟(むし)られ、剥ぎ取れ、全ての過去までもが抹消され、かつては祖国呼んだ国からも入国拒否され、名前まで失ったぼくはわかる。

 それは、ある啓発団体の政治的なプロパガンダとして、その啓発団体と敵対したある宗教団体を内部崩壊させるために傀儡として、利用され無残に捨てられた阿藤さんにもわかることだろう。

 大きな夢が小さな夢を喰い散らかす。

 我々は、喰い散らかされる弱い生き物としての運命に甘んじなければならないのか?

 グルジェフは、通常の人間は牢獄にいるようなもので、自由はなく、さまざまな規則にがんじからめになった自由意志を持たない<機械>であり、自分が望んでいるように行動したり、思考したり、感情を抱いたりしているのではなく、すべて起こるにまかせているに過ぎないとし、分別のある人間ならば、<機械>であることを止め、牢獄から脱出することを考えるべきだと説いた。

 この際、すでに牢獄を出た人間がいること、また牢獄を出ようとする人間が互いに協力すれば、それだけ脱出の可能性が高まるという。

 それは、ぼくたちが感じていることとまったく一緒だ。この監獄に食べられてしまう前に脱出せねばならなかった。阿藤さんにとっては、その契機がゾクチェンだった。ぼくにとっては、それが仙道だったのは言うまでもない。

 この牢獄を互いに協力しあい、ぶっ壊して、脱走したぼくらだから言えるのだ。

       対象性に左右されない強い運命を自ら創出しなければならない!

 あの時、言えなかったことが、今だから言える。あの時いた、弟子の手前や面子、様々な要因が阿藤大昇を曇らせたこともあったが、今、この「プリズン・ブレイク」を通じて、阿藤大昇は、爽やかに微笑み、ぼくに言ったんだ。

 それは、あの寒村で育った豊かさが発露した姿だった。弟子も全て失い、もう何も失うものがなくなった削ぎ落とされ、畑でたわわに実った果実が脱穀される瞬間でもあった。

  阿藤大昇:「明日から、占術を捨て、町でギターを弾きます。

         このギターを奏でるのも、占術で人に運命を告げるのも、

         同じだとわかりましたから。」

 様々な運命の紆余曲折を経て、卒業した昨日の自分からの言葉。

 危うく泣きそうになってしまいました。最後に斬られたのはオレかもしれない。

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