悲しみを超えて

 悲しみを押し殺して生きてきた男がいる。ずっと誰にもいえなかった。ずっと言えなかった一言。それは、咎から来るものだったのか、後悔だったのか、そこには自分に対する断罪だけが残されて、罪の意識は目の前を真っ暗にし、すべてを奪い去ってゆく。

 今日は、その一言とは何だったのか考えてみたい。

 入院してしまった彼を救うためにも。

 これは、悲しみを失くした一人の男の物語である。

 彼と初めて会ったのは、ある講座だった。周りからの質問にきさくに応える彼からは、傲慢さや奢りを感じなかった。そこには占験に携わるもの特有の雰囲気があった。それは、光りと共に陰る闇。

 冷たい氷が解けずに、冷蔵庫の中で一定の温度を保っている様に感じた。実際、心は凍らせることができる。

 光と闇はバランスである。闇が心を支える場合もあるし、光が支える場合もある精神力学の世界だ。精神力学(Psychodynamics)とは、近年、FBIのプロファイラーたちにとっては、常識の範疇となっている。

 そのバランスが乱れるときに、そこには仏教で言う業が噴出す。

 我々は、既にクリミナル・マインドで、どういうことが起こるかを学習済みである。

 自分を忘却し、影をなくした男が、過去に置き去りにした自分と出会ったときに起きた出来事は、言葉で語りつくせるものではない。

 それは、戦場に置き去りにされた戦友だ。 『ある戦地にて』

 寝たきりの祖父、精神分裂病の母親、色々な問題を抱えながらも、父親は力強い大黒柱だった。そんな父親を支えるため、彼は大学のことで家族に負担をかけることはできずに、昼間は大学に行き、夜は夜勤のアルバイト、祖父の介護までこなしながら、一途に父親を助けた。

 父親と、最後に交わした言葉は、「もう起きろ、バイトの時間だぞ!」と、言われた一言だった。一人息子で、兄弟のいない彼にとって、父親の存在は大きかったのは言うまでもない。

 その日、彼の父親は、人身事故を起こしていた。後から知った事実である。相手は小学生で、いきなりの飛び出しで、防げるものではなかった。その小学生は、額を何針か縫った程度で済んだが、相手の親にこっぴどく責められた父親は不運としか言いようがない。

 夜勤のバイトを終えて、家に戻ると、母は普通にご飯を食べていた。奇怪な行動や発言を多くする母親は、精神分裂病だっただけに、その静かな光景が頭を離れない。
 

 「父がいないことに、私は気づき、父を探しました。」

 何気なく繰り返される日常、当たり前だと信じていた一時。
 

    どこから、バランスは乱れてゆくのだろうか? 

    それは、取り返すことができる時間なのだろうか? 

    その瞬間の前に、どういった時間が存在していたのだろうか? 

    それは、少しだけ、ほんの少しでいいから、巻き戻らないのだろうか?

 
 車の中で横たわる父親は、何も語ってくれなかった。
 

 「父は服毒自殺を選んだようです」
 

 そう語る男の言葉には、どこか現実味がない。父は、服毒自殺を「選んだよう」だが、「選んだ」と言えない。

 そこに自らに対する断罪が潜む。この男の自らを責めて止まない罪の意識と共に、現実は否定を繰り返すことで、バランスを保とうとする。
 

    一体、これ以上にお前に何ができたと言うのだろうか?

    それは、父親の選んだ「選択だった」。

    何故、自らを罰し続けるのか?

    オレが、神父だったら、とっくにお前を許している。

 
 男は、残された家族のため大学を辞め働き始める。

 「私には兄弟がいないので、全てを一人で抱え込んでしまうクセがあるのかもしれません」

 人間が人間の営みを持って贖い切れない罪の意識を前に、男はやめたのだ。人間であることを。その時、心は凍らされ、ガラスの中に収納されたかのように新しい自分が始まる。本当の自分であることの歩みを止めて。

 人間をやめた人間ほど、心のどこかでは、人間を感じようとしている。人間を信じようとしているのだ。

 その後、一人で歩き始めた男は、人生の辛酸を嘗め尽くすことになる。交際していた女性に1,000万円、自営ではじめた会社の取引先に、700万円を騙し取られてしまう。

 「人の裏切り。信用することの本当の意味。好きになった人に騙されて、何が真実か見えなくなってしまいました」

 どこかで相手に伝わる人間としての違和感によって、係わる者は彼から色々なものを奪い取って行った。人間は人間ではないものに対して、ひどく冷たい。自分を守るために、もっと心を冷たくしてゆく男の心理描写がここにある。
 

    オレが悪かったのか?

    オレは被害者なのではないか?

    この心を凍らせること意外に、他に方法があると言うのか?
 

 男の言い分をよそに、心の中の化学変化は、一定不変の法則で組み立てられて行く。そう、被害者であると言う事実を自分で受け入れたときにわかる自分への慈悲をよそに、心は凍てつき、そして、気づくのだ。顔が凍傷にかかったように、こわばり、うまく笑えていない自分に。顔は心を表現するものだ。

 「悲しみと言う感情が抜けて行き、自分の中で何かがなくなって行くのを感じました」

 私は、彼との係わり合いの中に、大きな力を見出した。それは、あたかも仙家が百年の功夫のために、百年の孤独を過ごすごときものかもしれない。

 私のような仙学の徒は、喜びも、悲しみも、幸も不幸も全部等しい力として、精神力学を捉える。力は純粋に力であり、そこに差別はない。

 君が否定するこの世界そのものが、そう、この世界が、君やオレのような化け物を生み出したのだ。

 その力を正しい方向に活かしてもらいたいと思う。私は彼を私の内弟子にすることにした。彼が自分を捨てることで、得られなかった教育を私がやり直そう。

 そうやって、私の神功は、駆使されて行く。この力もまた、この世界が私に微笑んだことで、得られた能力なのだ。

 この世界を否定しないで!『ポラリス』

 「山道さんのメールをもらった時、昔を思い出し、そして、そんな私を信用してくれている想いに、すごく泣いてしまいました」

 神火が心の氷を打ち溶かし、それは涙となって溢れ出す。もっと泣いても良いと思う。悲しみを取り戻したのだから。

 そして、ずっと言えなかった一言をいっておくれ。
 
 

「父親の歴史の不在を認めてしまうことが、怖かった。」

「恐怖を感じてしまうことが怖かった。」と。
 
 

 そして、君は自分を見殺しにして、逃げたのだ。悲しみに浸る自分を許せずに。

 
 ぼくは、君に『世界で一番優しい嘘』 をつく。

 ここ何日も、私は君のことを深く思っていた。

 ずいぶん前に、私は、君の頭をハッキングし、観察していたのだ。

 人間が受け入れられる内容ではなかった。
 

    大きな力を見つけたよ。

    それは、この世界が生んだ奇跡。

    共に歩こう!

    今は、ぼくが君に肩を貸す番だ。

    そして、今度は君が誰かに肩を貸すのだ。

    その時、思い出してほしい。

    この世界が作り出した奇跡を。
  

 今は、三つの言葉をいつも、思い出し欲しい。

 憎しみにとらわれずに、憎しみに捕らわれた自分に哀れみをかける事ができるように。

 それが、『断罪』で伝えたかった想いです。
 

 一、あなたが何をしていても 私はあなたを正義だと思う
 二、あなたが人より多く学ぶことで あなたが多くの人を救うことを願う
 三、その時 あなたは私の誇りです
  

 今、君は牢獄から脱獄しようとしている。そして、既に監獄から脱獄した経験を持つぼくは君を手引きしている。

 今度は、この心を捨て去り、逃げることではなく、この心を持って、この心一つで、牢獄の壁を超えよう!

 こうやって、星は少しずつだが、集まり始めている。この世界に存在するバランスを乱す、より強力な憎むべきものを破壊するために。共に変えよう。この世界を。

 そのためには、己の心にある弱さを捨てよう。そう、儚い自分を捨てよう。これが、自分にかける慈悲だ。この社会に封が解かれ放たれた百八の化け物たちが集い最後の戦いが始まる前に。

 修練家の持つ慈悲とは、「自分に対してどこまで非情になれる」かが問われるのだ。君は、「自分が変われば、世界が変わる」信念を持って、一歩その世界に足を踏み入れ始めた。ここからの道は、もっと平坦ではないかもしれない。しかし、君は、それを乗り越える大きな力を持つ。

 悲しみに集約された力、己を罰するだけの力を解放せよ!それは、星辰や大地、人に向けられ、交流するべき力だ。

 やがて、自分では気づいていない力に気づき、それを正しく使い始める日まで、私は君の教師となる。

 かつて、同じ屋根の下で生まれたという理由だけで、私を脱獄させてくれた教師がいたように。そう、こうやって、 ぼくらは皆、繋がって連なっている。

  <関係ページ>

  • 『水滸伝』を思ふⅠ-水滸伝と金聖嘆
  • 『断罪』
  • 『世界で一番優しい嘘』
  • 『ポラリス』
  • 『ある戦地にて』
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