『風水バカ一代』九巻

 昨日という真夜中から、滲み出すように、夜には東京に戻ってまいりました。

 何から一個一個整理して伝えればよいのか、わからずに困ってしまいます。

Detailimg_08_0047_003 というのも、自然界の源泉とも呼べる深奥の部分に触れに行くと、そこにある「気」は、膨大な情報を持っていて、人との対話や係りから交流される優しいカーテンのようなオブラートで包んだような性質のものではなく、氷山に行き鋸(のこぎり)で、その一角を切り出してきたように、あまりに多くの塊のです。

51pkx0am96l  そして、それを氷解させねばなりません。

 短い時間で駆け抜けると、解凍(回答)作業を後回しにしなくてはならないため、頭にテトリスのように塊を並べて戻ってきて、氷解がはじまることも多いです。そう、つまり気が溢れ出すのです。テロリストの崩壊ではないですぞ。ヽ(`△´)/

*写真は、講演会資料をWordで作り、PowerPointで作らなかったダニエル状態と氷解(笑)。

Cimg4101Cimg4272   今回の旅も、前回の「東北・北海道篇」に引き続き、「愛知・岐阜・三重篇」『風水バカ一代』が日本の大地の上で刻むように行われた。それは、人の心に刻まれるものであったと信じている。

Img_8956 ほとんど無一文で旅をし、講演会やら、鑑定をして、旅費を捻出して回る。風水パカパッカー、『風水バカ一代』。

 忠犬タイスンと、その嫁のデイジーの三人で出かけたため、旅費は結構かかりましたが、何とか旅先でやりくりしました。(๑→‿ฺ←๑)

 皆に支えられ、宿泊先や食事までご馳走になりながら、旅を続ける。その代り行く先々の巒頭(らんとう)を実地で指導する。つまり、風水を教えながら旅をするというもの。

Img20081120  感謝の気持ちに溢れる。しかし、連れの忠犬タイスンは、人から何かしてもらっても、大きな声で、「ありがとうございます」さえ言えずに、無口な自分を装うため、ダニエルに北斗百烈拳を何度も喰らう。

 人様から何かしていただいた折には、「ありがとうございます」と一言いうのが、人間の礼である。今どきの人々は、この様に礼儀知らずが多すぎる。この様な輩が多くいるから、自然破壊に景観破壊をしても何とも思わない人間が世に溢れているのだろう。

Img_8698  人々は、「感謝の念」を忘れてしまった。それは、人間に対しても自然に対しても同じである。

 自分のことなのに、他人事のように考えて生きている狂った現代人の典型であるタイスン、そして、タイスンには不釣合いなくらい人間ができており、病んだ都会の代名詞であるニューヨークでソーシャルワーカーをしていた嫁のデイジーが言うには、
 
 デイジー:「"ありがとうございます!"と言わないことではなく、
         感謝の気持ちを感じて、自然と"ありがとうございます"
         という気持ちが、湧き上がって来ないことに問題がある」
  

Getimage_2  これは、現代社会にも言えるのではないだろうか?

 自然の一部であるはずの我々が、自然からの恩恵を授かって生きているにもかかわらず、あまりにも人工的になりすぎ、今ではジャガイモが実としてなっていると勘違いして生きている人々が多くいる世の中である。大地の恵みは、スーパーマーケットに溢れているのではない。

Img_8957  さて、大地の恵みを探求することでもある「地理風水」。今回の「愛知・岐阜・三重」出撃メンバー、ヒルトン(高木秀之)、タートル(加齢おじさん)、アンディ、マリーナなど、この旅路を手伝ってくれる心強い仲間達に囲まれて、今回の風水バカ一代は、多くの人と共に、意識の目覚めあるものだった。
 
Cimg4123  今回の出撃を通じて感じたのは、見たもの感じたもの、情報の一つ一つが自分の「血」となり、体の隅々まで行き渡ってゆく。そんな感覚です。そして、それは「知」に他ならないと。

 九巻では今回の旅で感じたものを先に書いていきたい。これが、ワードではなく、本当のパワーポイント(笑)。旅の詳細は、十巻以降ということで。

 『風水バカ一代』という旅路の果てに見たものは?

Img_8119_2Img_8103_3   それは、有機的な情報から導き出された背後にあるもの。地平の向こうにある影。

 古代からの営みと、古代人が大地に託した願い。

 そして、それは古代人が未来と試みた対話の形。風水は、それを読み解く言語である。

Img_8818Img_8820 日本の大地に根付いたもの。

 読み解かれてゆく無機的に残された情報群。

 かつて、龍は山であったが、山は龍であることをやめた。

 自然への畏怖を忘れ、自然を支配できると勘違いした人々が巻き起こす未来への自然破壊。

070122_photoImg_6449  無意味な投機としての杉の植林や、バイオマスと称し、風力発電のため山や平地に突き刺された鉄の塊の巨大な風車、景観を考慮することなく、様々な外壁に貼られて行こうとする新しい産業としての太陽光発電、無意味なテレビ番組から、不必要なケータイ電話のためのに山の尾根に釘を打つように建てられた電波塔たち。

 「より便利、より快適」の追求は、不要なエネルギーをより多く人々に消費させる社会形態を作り出し、人は自分で作り出すことのできない量のエネルギーを消費して生きている。そして、地域社会は廃れ過疎化する。

 車や電車でしかいけない場所でしか仕事ができない社会構造と広がる空間に疑問を感じる。それは、都市開発が、エネルギー問題を考慮して開発されなかった結論なのではないだろうか。

 自ら作り出すことのできないエネルギーを日々消費して生きる人間の欲望行き着く先は?

 ああ、ぼく達は何を見つめているのだろうか?

 そうやって、自然景観は、いびつに歪み破壊されている。

 破壊されつくされている。そこから起こる無意識に浸透して行く禍に人々が気づいたら、有機的に消費されてゆくだけの生活に宿る光景である景観に恐怖し、今ある生活形態は大きく姿かたちを変えるだろう。

 そう、我ら悲しみの生の消費者という事実。物に還元してしか、計れない物差しを捨てる時が近づいている。それは、景観と人間心理のかかわりを読み解くことからはじまると風水は示唆する。

Img_8788_3Img_8374   物の文化として堕落し、観光客寄席のために景観破壊を繰り返して作り上げられた無秩序の建造環境たちが自然環境の中から問いかけてくる。
 それは、大地からの問いかけ。

           「これで良いのだろうか?」

Img_7525   人間が飼いならせると思った龍たちの静かな、胎動を感じる。やがて、それは人間を襲うのではないだろうか。自分を守るための本能として。
 

Img_6726 自然破壊、敬う心を忘却した無信仰、果ては捨て去られ荒廃した神社や祠たち。かつて、神社や祠は、山を祀(まつ)り、山からの恵みに感謝し、自然を畏怖する人々の大地への敬意の象徴でもあった。

 人が大地の恵みからの感謝を忘れた時に、現れてくるもの。人はかくも傲慢になる。

 全てが相関関係を持ち、その地域の心を顕している。

Img_7270  山に深く根をはり、山の水を作る広葉樹を伐採し尽くして、その代わりにびっしりと植林された杉たち、間伐することも忘れられた杉たちによって、エネルギーを吸い尽くされ、龍であることを止めた山。森であることを止めた山裾。苦痛に悶える龍の背、山の尾根。

 数々のシーンが、問いかけを発する。

 それは、とりもなおさず、今まで無機的に潜み、有機的な情報となり得なかったものたちを風水で読み解くことで、改めて見(まみ)えて、聞こえてくる対話からの答え。そして、それは一人一人に係わる問題だということを何故、等閑(なおざり)にするのか?

Img_8636Cimg4536_4  風水が今後果たさなくてはいけない役割について考えさせられる。そうやって、大地と人間は感応している。

 「神は運命を定めるが、人が運命を変える(『ダンテ神曲』)」のだから。意識の目覚めを持つ者達が、早くこのステージに駆け上がってくるのを待っている。階段の足音を聞きながら、手を伸ばして待っている。そのために、発表もするし、本も書くのだろう。

 悪しき時代の流れに贖う「変える」ための力とは、人間の力に他ならない。そして、その力が繋がる先が天地であり、風水はその関係を述べていることを忘れてはならない。

 「陰陽変化の理とは天地造化の道であり、天地と万物の相待を説く。」 山道帰一

 己を研ぎ澄まして、欲に溺れずに、煩悩に支配されず、最後まで本質的信念を曲げず、「己で居つづけた」者達の手にギフトを渡すのだろう。それは、理性であることとは限らない。我々は不要なものも必要なものも全て持っている。

 荒廃した世で、ありとあらゆる不条理に揉まれて、苦悶の精神の地獄の中で、何度もくたばりかけながら、拷問のように痛めつけられながら、まだ送り人されずに足掻き続ける荒魂(あらだま)よ!

 磨き続け、研ぎ澄まして、削り取って、そして残ったもの。それが、本質である。

 本質を手にして、力を主張して、運命の回廊を抜けて辿り着くのだ!

 そのとき、きっと許されるのでしょう。「何も失うものなどないのだよ」と。

 こんなことは、オレが言うことではないが。自分を終わらせるために、自分の成すことを終わらせよう!それが、最後の業だ。

 我々のなすこと、やろうとしていることを証明するためには、新しいモデルを形あるものとして示すことに他ならない。そして、それはとりもなおさず最も古いものでもある。私達は、この「気の世界」を生きていることを通じて、大地から感じることがあるのだから。

Cimg4667_2Cimg4516_2   今回も、岐阜・愛知から三重に行くまでの間に京都に寄った。
 建築師の尾竹先生、気功師の長谷部さん、人間電波塔のイスカンダルさんらの同志と共に、京都綾部に集り、我々がなすべき未来について大地と語り合った。

 手を伸ばして届くならば、救いたいと望むのが人間の常。ぼく達は、未来に手を伸ばそうとしている。それは、時代錯誤なのかもしれない。しかし、言いたい。

 「時代が見誤っているのではないのか?」

 そう、ぼくらのZERO(ゼロ)「回帰点」が、心に灯り、やがて未来にも灯ると信じている。

 そのとき、物言わぬ我々は主張するのだろう。

 「時代が錯誤した!」

 と。そのために、我々の見つめたものを表現せねばならない。表現することを今は止められない。

 それが、ZEROへと繋がる「道」だから。

 それは、繋がりを信じた同志達の手によって実現されること。

 全ての繫がりが、ZEROへと向かう。これは、少し先の未来の出来事。

<関連ページ>

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  • 『風水バカ一代』十二巻
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  • 『風水バカ一代』十巻
  • 『風水バカ一代』九巻
  • 『風水バカ一代』八巻
  • 『風水バカ一代』七巻
  • 『風水バカ一代』六巻
  • 『ダニエル書Ⅰ』
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