先ほど、親しくさせていただいております、某建築会社のO氏より、貴重なお知らせがあり、きな臭いもの感じております。
O氏からの手紙
ジュセリーノの予言に、2008年6月16日に台湾の埔里鎮(プーリー市)でM7.4の地震。死者数千人という予言が本に出ているようです。はずれるようお祈りしております。
あの・・・ぅ、私、その日、台湾の埔里鎮にいるんですけれど・・・。こんな偶然、あって良いのでしょうか?
本日、6月15日、台湾に夜8時に到着して、6月16日には老酒と澄んだ水で有名なこの町にいるんですけれど・・・。
しかも、今、O氏に返信書こうとしていたら、PCがハードディスクごと壊れて、PCが立ち上がらなくなり、急遽ノートブックに切り替えて、このブログを書いています。
いや~、今日二回も車にはねられそうになったんだけれど・・・。そのうち、一回は、足にタイヤが当たったんだけれど・・・。無傷だったけれど。
ふ~む~。ヤバイ感じ。
あの台湾の1999年に起きた921大地震を思い出す。あの日、私は台湾にいて、斜めに傾いたビルから、運良く逃げ出せた。
ふ~む~。また、デジャヴしなくてはならないのだろうか?
この的中率が異常に高いことで知られる予言者ジュセリーノを信じないわけではないが、そこで、地震が起きて死ぬのが運命(さだめ)ならば、それも受け入れなくてはならないのだろう。
というのも、私は無為自然の実践者であり、「自ら然る」ものに心身を任せることを実践としている。それは、「自ら然る」ゆえに必然的なことになるのだから。従って、このとき自然は天地たる自然となり法ともなるわけで、この「自然=天」に身を任せることが「命」に服すこと、運命であり「如何ともすべからざる天命」だと識っている。
そう、人間もまた「自ら然る」が故に自然なのだ。どうして、人間だけが、自然に逆らうことが出来ようか。儒家の言う「天命」は荘子にあってもその思想の中核をなしており、荘子は言う。
「死生は運命である。夜朝のきまりがあるのは天である。人間の与り知らない処があるのが万物の真相である…そもそも自然は、我々を大地に載せるために形(肉体)を与え、我々を労働させるために生を与え、我々を安楽にするために老年をもたらし、我々を休息させるために死をもたらす。故に吾が生を善しとする者は、すなわち吾が死を善しとする。」こととなる。
ジュセリーノの予言は、タイムラグがあることも多いという。私は、不思議なことに、荘子が大好きな兄弟子と共に、予言された日の次の日である17日と、さらに次の次の日である、18日も、この台湾埔里鎮の近辺にいる。ちなみに、兄弟子と、ある戦士とは、17日に台湾で合流する。
しかし、何か起きて三人とも共に死すとも、我々の思想は天命に従い「死を善しとする」のだから、ある意味何も心配していない。そう、我々は、荘子のように運命随順主義者なのだから。
ただ、こんなところが、ぼくの今生の終点だとしたら、神様ってやつは、相当意地悪ということになる。希望としては、最悪の場合でも、事が瞬時に起こるのではなく、時間的な余裕があることを祈る。
ジュセリーノの予言 VS. ダニエルの運命
もし、ジュセリーノの予言が的中し、このブログが更新されなくなったら、これを遺書だと思ってくれると、ありがたい。ただ、それは絶対にないな。
己の信念による生き方を決して曲げず、運命から逃げ出さずに立ち向かう。この勇気を皆に伝えたい。それは、言葉じゃないんだ「生き様」なんだ。
運命から逃げちゃダメだ。立ち向かったり、素直な心で受け入れることで、運命は姿かたちを変容させる。そして、受け手が、常に見極めなくてはいけない、出会ってしまった運命をどう受け入れるかという問題を。ぼくは、運命随順主義者だが、それは、「自ら然る(自然)」に逆らう必要性すらないという思惟に基づく。すなわち、「自然=天」であり、人も、また、自然であり、天であるという天人合一思想としての生き方なのです。
ぼくは、決して宿命論者ではない。人は生きているうちに何度でも運命をやり直せる。もちろん、運命を変えて、乗り越えて行くことも可能だ。つまり、人は生きているうちに何度でも生まれ変わるんだ。
予言どおりに形作られて行く識の織り成す世界。それは、完全に魔術(呪術)世界の領域だ。「人即天・天即人」に基づく、ぼくの「識」で、それを解体できるかどうか。必然的に試まなくてはいけなくなりました。というのも、その日、そこにいるからです。ジュセリーノの見る夢のリソース(何かきな臭い感じがする)が、どこから来ているか知りませんが、夢の宿命論者の幻影をぼく自信が追うことはありません。
未来は、我々の手で切り開くもので、未来には何一つセットなどされていない。我々人間がセットしているのかもしれない。それが、良いものでも、悪いものでも。もちろん、要因となることは、あるだろう。この後のカオス理論で説明するが。運命とは、宿命論に基づけば、因数分解のごときものなのかもしれないが、多項式を因数(要因)の積に分けるのではなく、その源を見つめるようにしたとき、必然的に、多項式、言わば、命・卜・相に基づく未来判断や予言、予知夢というものが生まれてこなくなる世界がある。ぼくは、その世界を見つめることを常に提唱している。それは、密教で言う「幻身」を超えた世界でもある。または、荘子の見つめ続けた「胡蝶の夢を」抜けた「中」の世界とも言えるだろう。
*「物に乗じて心を遊ばしめ、已むを得ざるに託して中を養う」。『荘子』内篇人間世篇
ジュセリーノを信じないわけではなく、人格に疑いを持っているわけでもない。むしろ、自分の見た夢(要因)によって人を救い、これからも救おうとしている方なのですから(一概に宿命論者と決められないだろう)、きっと立派な方なのでしょう。ただ、ぼくとは生き方(行き方!?)が違うだけです。悪い夢は、解体されなければならないのです。
四川大地震にみられる惨事の背景には、明らかに、人の意識が作り出した目に見えぬものを感じます。もしくは、目に触れられぬようにした影をうごめくものですね。四川大地震を起こしたとみられる竜門山断層帯は長期間めだった活動がなく、「死んだ断層」と考えられていた。つまり、何百万年も地震のない場所で突如として地震が起きる。そして、その近辺で同時期に行われていたチベット弾圧、虐殺・・・。数々の悲劇の連鎖が、負の供物として捧げられ、負の呼水となり・・・四川大地震は起きた。
それは、カオス理論の世界に似ているのかもしれません。ある意味、カオス理論は、仏教でいう「縁起」の概念に似ている。縁起とは、「一切の事物は固定的な実体をもたず、さまざまな原因(因)や条件(縁)が寄り集まって成立している」とするものだ。
小さな蝶(バタフライ)の羽ばたきが地球の裏側で台風を起こすこともある。
カオス理論に「バタフライ効果」というものがあります。バタフライ効果とは、「初期値のごくわずかなずれが、将来の結果に甚大な差を生み出す」とするものです。
つまり、世界的に高名な予言者の引き起こす、ささやきが、多くの人々の意識の気流に乗り将来の結果に、甚大な被害を起こすこともあるということです。
運が良くも悪くも、かの予言の日、かの予言の地で、ジュセリーノの夢と会い目見(まみ)える。この羽ばたきを止めてきますね。ぼくの命が、こんなところで、羽ばたいちゃうのも嫌ですし、なにより、沢山の人が死ぬのをもう見たくないから。
それに、こんなところが、ぼくの終点じゃない。
こんなところで、終われるはずがない。
ジュセリーノが逝き方を説くのならば、ぼくは生き方を説くしかないな。(。◕ฺˇε ˇ◕ฺ。)
まあ、何はともあれ、ジュセリーノの『プレステージ(偉業)』の犠牲者にならないように、気をつけまする。ヽ(`△´)/
心配してくれ、メールをくれた多くの方に感謝します。このメールたちによって、ぼくは生きながらえることが出来そうです。そう、一人じゃないんだ。(◕ฺ‿◕ฺฺ)
今、自分の中の「識」に認識させています。「台湾の埔里鎮で地震は起きない」と、何度も。
だから、ぼくはこの予言がハズレると、この予言者に対抗して、予言する。
もちろん、台湾は活火山の上にあるわけですから、永遠に地震が来ないと予言しているわけではありませんよ。「いつか、台湾の埔里鎮地震があるだろう」という予言なら、誰でも出来るでしょ(笑)。だって、活火山の上だし、可能性はいくらでもあるもん。ようは、今月、6月という一ヶ月で、時間を切って勝負しましょうや。
さぁ、マジシャン対決ですね。ぼくの「識」の中で解体した事象が具現化するか、マジシャンが作り上げた夢が具現化するか。しかし、どちらのマジック・ショーが、客受けするかではなく、道理としてどちらが正しいか読者も理解して欲しい。人が虫ケラのように大量に死ぬ惨劇を見る前に。
悪夢のマジシャン・ジュセリーノ VS. 虚無のマジシャン・ダニエル
それでは、証明しに行ってきます。ぼくの業である照明に従って。
勝てば官軍、負ければ震災被害者。これは、勝たないとヤバイね。背負っているものが大きいから。このスリル感が欲しくて、生きているような気がする。これだから、人間やめられませんわ。( ゜ 3゜)
ちなみに、ぼくが負ければ、ここが更新されなくなり、必然的に皆から、「仏」になったとささやかれるのも、怖いですよね。(◕ฺˇV ˇ◕ฺ)
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