今回の引越しで、18回目の引越しとなる記念すべき、昨日は、ダンボールの隙間をかき分け、ベッドを引きずり出し寝れた。本棚で作った小部屋に壁紙を貼ったりして、日曜大工仕事も楽しめた。
引越しとは、運命が交錯する瞬間なのかもしれない。普段思いもしなかったことや、過去の回廊が、引越しによって開けることがある。
本棚の裏は、ベニヤ板なので、壁紙を貼るのりを二度塗りしたりして、工夫をした。はじめての壁紙貼りですが、なかなか、きれいに出来ているでしょ?
何気に、日曜大工仕事が得意なダニエルなのです。
昨日は、日曜じゃないけどな。ヽ(`△´)/
などなど、緩急をつけた語調をしていると、最近、友人の女の子に言われた言葉を思い出す。「鬼の帰一さんは、あまり見たくありません」。 (。◕ฺˇε ˇ◕ฺ。)
そう知らず知らずに、荷物を片付けていると、顔が鬼になっているこ とがある。そりゃ四日間も投入しているのに、こんなにも片付かなければ、自然と顔が「鬼」にもなるわ。わしゃ、「鬼一さん」か!?(╬☉д⊙)
しかし、これでも当初、全部部屋が荷物で埋まっていたことを考えれば、飛躍的に、整理が進んだと言っても過言ではないだろう。会社では、「整理しながら、本を読んでいるから、整理していない。」などと誹謗中傷されているが、もう、18回目の引越しで、燃え尽きちゃったのよ。
ホテルで二泊して、昨日はじめての夜をこの新居で過ごした。寝心地は、悪くなかった。なんか、夢を見たが忘れた。ふ~む、夢を覚えてられないほど疲れているようです。
この家に来て以来、あるパワースポットに行った時に見た怖い夢を思い出す。誰かが入ってくることを恐れていて、ガラスでできた家の中の鍵とカーテンを閉める。だけど、一箇所だけカーテンがなくて、とても怖くなって悪夢から目が覚める。その場所が、昔、住んでいた韓国の家を髣髴させる。ガラスでできていなかったけれど、同じなのだ。
でも、これは前向きに捉えるならば、ぼくを鍛えてくれるだろう。全ては、あそこで起きた大事な人の死にまつわる殺人事件が、ぼくと風水を係わらせて行くことになった。つまり、この家では、風水と係わることになってしまった原点を思い出す。その原点は、楽なものではなかったし、長年にわたり、決して受け入れることの出来ないことだった。この世のありとあらゆる不条理を受け取れることを拒んだぼくが作り出した心の歪なのかもしれない。
この贖う者としての原点を忘れたくない。だから、心に刻むことで、ぼくは忌まわしい過去の死の刻印を自分に刻む。ぼくの身代わりになって死んだ人の生を背負って行く。運良く生き残ったことが、ぼくにとって、最も過酷な試練への道だったのかも。
そう、一度、死した自分に何も恐れるものはない。そして、原点を彷彿とさせるこの家は、きっとぼくをある方向に導くだろう。わかっていて、守れなかった昔とは違い、今は、わかっていて、行動できる強くなった自分がいる。向かい合い、受け入れることで、あの日、失ったものが、ぼくを強靭に鍛え上げた。
この物件とは、縁があって引越して来た。そのため、巒頭(形ある風景)以外見ないですぐにこの新居を決めたため、色々な手法や角度での風水の理気(向)を特に気にも留めなかったが、ものが多すぎて配置するのに、縁起物として、ロー先生の玄空飛星で、理気からものを配置しようと思って、飛星図を作ってみた。
いや~良かったですわ。「合十」の縁起もんだし、水星8と山星8が、的確に用途に合わせて使えますし、「河図ルール」で良い理気の影響が広がり、悪い水星2は、太極で潰れてくれていますし、空間の2/3が有効レンジとして使用可能ですぞ。ラッキーですわ。( ゜ 3゜)
玄空飛星は、レイアウトやインテリアの配置に悩んだときに、具体的な縁起の良い物のあり方を示唆してくれる。内装関係者や、インテリア・デザイナー、コーディネーターは、学ぶ価値のあるものだろう。( ・ノз・)
しばしば、「山道さんは、色々な先生について勉強したようですが、内容が、矛盾したり、先生と先生の関係などは問題がないのですか?」と、聞かれることもある。
確かに、風水だけでも、家学を入れて五流派の風水体系を学んだ。そのうちの何人かは、既に他界して久しい。よく、風水に造詣の深かった父から「最低でも、三流派は学ばないと使い物にならんぞ。」と、子供の頃から教わってきた。
次男だった自分は、いくら求めても、家学を全部教えてもらうことは出来なかった。そのためか、海外に出てからは、貪欲に色々なものを収集し、あちこちの門を敲(たた)いた。
家のルールやしきたり、掟に負けたくなかった。何よりも、運命によって選ばれなかった自分の運命に、負け続けたくなかった。
ぼくが、拝師した老師たちは、一人を除いて、皆一様に人間形成共に練り上げた素晴らしい人生の風水体系を持っていた。道徳律が高く、自己に忠実で、自分が根拠としないことは、決して口外しない。
レイモンド・ロー先生には、拝師こそしていないが、心の中で深い繋がりを感じる。人格者であり、高潔であるその人柄を尊敬している。つまり、ぼくにとっての基準は、風水の技術などよりも、まず、自分が尊敬できるか出来ないかが、一つの基準だ。人間として尊敬できない人間からは、どんなに素晴らしい術を持っていようと、何も習いたくない。魂がそれを拒絶する。
そう、風水の秘伝にまつわる部分は、心と心の繋がりが、言語や文字を超えた教えの伝達を可能とする。
しかも、自分は世間に出ることなく風水や仙道を研鑽していたので、ぼくのせいで老師たちに迷惑がかかったり、老師同士の間で不和が生じたりすることはなかった。特に仙道に関しては、そこには、目に見えない霊脈があり、その系列の中を違うことがなければ、先生同士で不和など、そんなことは起きようがなかった。
学ぶための作法があり、学ぶための規則がある。そこに違うことがなければ、問題は何もない。
確かに、習ったことは、矛盾しあったり、理論の整合性を結ぶことが出来ないことも多々あったが、それを自分なりに腑に落とすことが、習った後の最大の課題だった。
結局のところ、一つの流派が時間の経過という歴史と共に練り上げた体系は、その体系でまとまっているのであって、その体系と別の体系を結ぶ必要がない場合が多い。
そして、それらの体系を自在に読み解くことが出来るのは、それらの体系に係わった自分自身なのだ。今、それが自分の中で面白い作業だ。
ここで、溜まっている書かなくてはいけない原稿を一気に仕上げて、ぼくの風水世界、「風水山道」を一気に世に問いますぞ。(;◔ิд◔ิ) !!!
待たせちゃったね、特に君には。(❝ฺ_❝ฺ)
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