前置き・・・
いままで出版した(翻訳も含め)、多岐に渡る内容のためか、心無い人が悪質なレビューをアマゾンなどに書き込みをしてきます。
レビューとは、書籍販売サイトで読後感想を書き込みする欄があるのですが、読んでためになった、ならなかったの評価を入れ、その感想を投稿したものです。
とある生徒から、「先生、またも0000と名乗る(サイト上のネーム)人が、こんな事書いてきましたよ」と言われ、000が他の著者、著作にも一連の心無いレビューを書いていることを突き止めました。
本の読後感想というのは、個々に様々ですから当然参考にならなかった、という意見もあってしかるべきと思います。
もちろん、この文体から犯人は容易に想像がつく。粘着質のストーカーである。
さて、犯人暴いて曝すのは最後にして、まずはレビューの星の数などどうでもいい。その不当な内容について審議したい。
以下、このレビューを青文字で引用して一つずつ異議を唱えさせてもらう。
そもそも著者が台湾人なので仕方ないのかもしれないが、日本語の文章がおかしい箇所が多々あり何を伝えたいのか良く分からない部分が多い。
そもそも。私は台湾人ではない。
そして、これは明らかに台湾人に対する差別的発言だ。これだけの親日国の台湾に対して酷すぎる!
台湾人でも日本語が日本人より堪能なものはいくらでもいる。
例えば、邱永漢は小説『香港』で第34回直木賞を外国人としてはじめて受賞した台湾人である。
また、王貞治監督も台湾人だが、明らかにオマエのレビュー見る限り、オマエよりも日本語ができる。
このレビューアーは忌むべきレイシスト(人種差別主義者)だとわかる。
また、本の内容と何の関係もないことを述べることから単なる悪意。(-_-#)ムカッ
日本語の文章がおかしいのならば、重版のときに参考にするので、どこがどうおかしいかを指摘するべきである。
台湾人でもないのに台湾人だと断定したり、台湾人たがら日本語がオカシイと断定したり、妄想による決めつけで、これは既にまともなレビューの類ではない。私怨か嫉妬のたぐい。
またマニアックな”変な”古典からの引用が多く、この”変”さに著者が自己満足して陶酔しきった様にも思われる。
まず、本書で参照または典故している古典はどれも、まともな風水実践家ならば必読のものであり、それを「変」という自体で、このレビュアーは風水について何も知らないことがよくわかる。自分の正体を明かせないでレビューをしてくる位のことしかできないので、自分が風水を知らないことにやましさを持ってこのレビューを書いていることがよく分かる。これらの重要風水古典籍をマニアックだと言うことから、全く風水のお勉強をしたことがない人だよくわかる。
陰陽五行思想を基にしている以上道教を始めとした「老荘思想」からの着眼点も視野に入れるべきではなかったのかなと感じられた。
以下、拙著『完全定本【実践】地理風水大全』 30ページから引用
戦国時代末期の諸子百家のうちの道家、荘周(紀元前369年-紀元前286年)の著したとされる『荘子』では、気の集合離散が万物の生成消滅という変化を起こしていると説明している。『荘子』知北遊篇には、「人が生きているということは、生命を構成している気が集合しているということである。気が集合すれば生となるが、離散すれば死となる」と、説かれている。
人の生は、気の聚まるなり。聚れば則ち生と為り、散ずれば則ち死と為る
「人之生,氣之聚也。聚則為生,散則為死。」 『荘子』(知北遊)
『狐首經』で説かれる「生」を荘子にあてはめて考えると、「生」とは「気の聚まる」ことである。また、『葬書』、『靑烏經』にある「気」とは、この集合と離散をあらわしているのではないだろうか。
この様に「老荘思想」からの着眼点と引用があることすら知らない時点で、このレビューアーは本書を読んでもいないことがよくわかる。
こうも書いているのだが・・・。『完全定本【実践】地理風水大全』 37ページから引用
道教の荘子(紀元前369年-紀元前286年)の思想と融合した風水は、早い段階から、仏典の補修された『大蔵経』より、天体の知識を吸収し、朱子学の発展と共に、理気二元論を受容し、儒教思想に起きた変化とも思想的整合性を保ち続けた。
特に前半の”気の定義”に関しての小論文の出来はあまりにも酷くお粗末である。”気”を定義するのに甲骨文からの考察すらないとは一体どういうことだ?
そのお粗末であるという指摘が甲骨文から「気」を考察しなければいけないという私的に指摘され、断定されることに明確な根拠と理由が示されていない。この本は古代漢字学を研究する白河静氏の研究路線とは異なることは、どんなバカでもタイトルを見ればわかるはず。
著者達は真剣に中国思想に取り組んでいるのか?台湾のオカルト仙道同好会で踏みとどまっているだけではないのか?
中国思想とは、それはまた広汎な範囲を指すが、少なくとも「風水思想」に取り組んでいる書であることには間違いがない。ただ、「風水思想」が中国思想を包括しているはずがない。当然、讖緯思想に見られる神秘学としての一面がまっとうな中国思想の研究対象になるはずが無いのは周知の事実で、中国思想が必ずしも緯書と中国の神秘思想を包括しなければいけないというルールは未だに学術世界で聞いたことがない。
台湾のオカルト仙道同好会が何を指すのかは不明だが、この記憶力も思想力も弱いレビューアーが、私のブログをテキトーに読んで、何かが妄想的に頭の中で化学反応をしている模様。私はブログの中で「五術教育協会」にゲスト参加した話は書いたが、台湾の仙道同好会なるものと交流があることはどこにも書いていないし、そんな仙道同好会とはどこにも交流はない。
そして、一般的に台湾で五術研究会といえば、命・卜・相の占験を主体としており、もし「山」を研究する五術研究会ならば、「仙道」や「密教」という言葉を選んで使うはず。何も知らない知ったかぶりにはまいるが、書いた文章をどう解釈するのも読者の自由なので、自分の頭の中に閃いたそのキーワードがこのレビューアーと関係しているということだろう。
ただ明らかにわかるのは、このレビュアーの上から目線とは裏腹に、この人は研究者でもなければ、実践家でもない。また、風水も仙道も本で読んだ独学の読書程度すらも、ちゃんとしていない人なのだとよく分かる。もしくは読解に問題があることから脳に問題を持っている可能性が強い。
共著者の山道氏が自ブログで非難した東大の中国思想学者達の論文でも一度くらいは真剣に読んで頂いて自身の”浅学”さを少しは自覚して頂いた方がどんな漢方薬よりも効き目があるのではないかと思う。
まず、私はどこにも東大の中国思想学者達の論文を否定などしていない。もし仮に否定している部分があるのならば、どこなのか逆に指摘していただきたい。
『風水住宅図鑑』にも書いたが、学者には学者としての研究領分があり、寧ろ『青囊經』の成立年代の特定など、色々と研究していただきたい点がたくさんある。
近年、文化人類学ということをテーマに風水を研究する人たちに対しては、フィールドワークの不足を指摘してはいるが、どこにも東大の中国思想学者達の論文を否定してなどはいない。
寧ろ、東大というだけで、このレビューアーにしろ、私にしろ受験しても合格しないくらい難しい大学という印象は持っている。言わばこれが浅学さならばとうに自覚しているということになる。( ´゚,_ゝ゚):;*.':;ブッ
まあ、ひとこと言いたのはまずこのレビューアーがこの本を一度くらい真剣に読めとは言いたい。そして、ブログにしろ本にしろ読むのは勝手だが、もし本当に読んでこのレビューを書いているのならば、人間としての最低限の読解力に問題を持っている。CDジャッケト見てその中身の音楽も聞かずにメロディを妄想しているようなもので、このレビューは何の論拠もない滅茶苦茶な言いがかり。
この著書の唯一の救いは王允の「論衝」を紹介している部分が序盤に出て来る所であるが、著者はこの古典をちゃんと読んでいなかった様である。王允のスタンスは基本的に”風水”の様な”まじない”を批判する立場である。一応、「論衝」を紹介した点という意味で星一つを贈呈しようではないか。
まず、このレビュアーは論衡(ろんこう)という漢字が書けるようになってからエラソーなことを言おう。
論衝(ろんしょう)って何?衝は突き当たることで、衡は、はかることであり、どんだけ意味違うのだという問題です。
そんな風だから脳に問題があると言われるんだろうがぁ。ヽ(`△´)/
ちなみに、論衡の著者は後漢の文人、王充(おう じゅう)であり、中国後漢末期の政治家で、呂布と共謀して董卓を殺害した 王允(おういん)ではありませーん。ヽ(`△´)/
甲骨文読むより、まず常用漢字書けるようになってくれ!頼む!これでは君は単なる恍惚の人。(○ `人´ ○) タノンマスー!
いつ誰が、王允著の論衝を引用したのNo~??
捏造とウソはやめなさーい!!ヽ(`△´)/
おっと、これでは論衡じゃなくて論衝になっちゃう。
さてさて、序に書かれた『論衡』から引用部分は、「地理と国家、政治が強く結びついている」ことを述べるために引用した文章であり、王充が天人感応や陰陽五行を肯定し、風水思想について肯定的な意見を述べた人などと、どこにも述べられていない。
また『論衡』問孔篇では論語に問題提起し、刺孟篇では孟子批判している。
著者はこの古典をちゃんと読んでいなかった様である。
本の名前もわからへん、本書いたヤツの名前もわからへんって、ハァ?
ちゃんと読んでへんのは、お前やろが〜!ボケェ~!コラァー!ヽ(`△´)/
”儒教精神”に欠けている様に思われる
と、人様に言うが、王充が儒教批判していたのは許されるのか。(笑)
この漢字悪いレビュアーは『論衡』の漢字も書けないし、王充の思想も理解していない。ただの知ったか。まして、儒教を知りもしない。
またこの漢字悪いレビューアーは理気と巒頭の区別をまるで理解していない。
理気が天人感応や陰陽五行説から成り立っているのは周知の事実だが、巒頭がこれらの原理で成り立っているわけではないというのは、少しでも風水を勉強したことがある人ならば知っている事実。
また、中国思想という立場でレビューを述べているが、王充が否定した祖霊崇拝の礼教道徳は、儒教思想のものであり、後に儒教思想と風水が融合したというのは本書でも書いたとおり。つまり、中国思想に見られる儒教思想と風水思想が互いに影響を与えあっていたことのほうが、のちの宋学、新儒学(朱子学)を語る上でも極めて大事なことは本書を通じて述べている。
宋明理学が確立していく過程で、それは、朱子が宋学を朱子学(理学)にまとめいき、仏教哲学との対抗があったのは周知の事実だが、その背景には風水思想も関係していることを指摘している。
宋代の太祖開寶(968-975年)のときの国師を務めた張子微が風水の巒頭古典『玉髄經』を著し、それ以降について新儒学から風水の理気が生まれたことを述べている。
『完全定本【実践】地理風水大全』 36ページから引用
宋代の張子微(968年-975年)が『玉髄經』を著し、朱熹の門人であり、先賢と呼ぶに相応しい蔡西山(1135年~1198年)が、それらの膨大な図の要旨を探求した。よく熟考された思慮を持って、風水に精通したのだろう。山や川の形が時の流れと共にどう変化するかなどを調査した。・・・・・ここに、張子微から蔡西山へと続く風水の探求の過程に朱子学があったことは、否めないだろう。それは、理気と呼ばれる概念の誕生の瞬間でも合ったように私は考えている。「理気とは何か」(52ページ参照)の章を参照してもらいたい。
これらからも、この浅学・レビューアーが、まともに読んでいないことが顕著にあらわれている。もう一つ挙げる。
『完全定本【実践】地理風水大全』 37ページから引用
朱子学における理気二元論が風水に取り込まれたのは、巒頭の穴のもたらす運気の影響を格物致知によって分類し、風水の生気論によって配慮するという思想に顕著である。それは、儒教思想そのものであり、先祖崇拝という概念を強く髣髴させるのである。また、朱子学における理気二元論は、ここで風水思想に新しい局面をもたらす。気をどう捉えるかという気の哲学である。それは、理気の誕生を促した。
”風水”の様な”まじない”
ちなみに、私も風水をまじないの類と勘違いされないように、いつも述べている。
風水はまじないではないと。
以下、『風水住宅図鑑』 52ページから引用
室内に動物や神様などの風水グッズの置物はありません。水晶もいりませんし、家の土台の地中に炭を埋める埋炭もしません。 そういった迷信を切り捨て、伝統風水で培ってきた環境心理学としての揺るぎない経験と確信に裏打ちされているからです。
一応、「論衝」を紹介した点という意味で星一つを贈呈しようではないか。
まあ、オレは論衡という漢字が書けないこの漢字悪いレビューアーと著者の名前さえも妄想している知ったかぶり君に1つ星をあげよう。( ・o・)_★
自身の浅学さを少しは自覚して頂いた方が身の為ですぞ。
そもそも著者が台湾人なので仕方ないのかもしれないが、日本語の文章がおかしい箇所が多々あり何を伝えたいのか良く分からない部分が多い。
まあ、漢字が書けないだけではなく、歴史上の人物を名前の漢字が似ているだけで混同するような、頭自体がおかちいのがこの漢字悪いレビューアーだが、先にも述べたように、日本語の文章がおかしいのならば、重版のときに参考にするので、どこがどうおかしいかを指摘するべきである。
プロの編集が入っていて、おかしいと言いがかりをつける文豪のフリしたこの浅学・レビューアーだが、常用漢字もまともに書けないようなアホを信用する人はこの世の中にはいない。
この漢字悪いレビューアーは全く私と関係がない他者の著作のレビューの中にも私への言いがかりをつけているので、それに対しても異議あり!を続きでしたい。
しかし、オレくらいだよなー。
自分の著作買ってもいないし、読んでもいない奴のレビューに真剣に答えてあげるほど読者ならぬ毒者サービスが行き届いた著者って。(。◕ฺˇε ˇ◕ฺ。)
ついでに、この漢字悪いレビューアーのトレーサビリティについても次回で暴くかな。
ここまでの結論として、この漢字悪いレビューアーはレビュー対象の本を読んでいません。
パート2に、論衝2につづく。
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