前置き・・・
いままで出版した(翻訳も含め)、多岐に渡る内容のためか、心無い人が悪質なレビューをアマゾンなどに書き込みをしてきます。
レビューとは、書籍販売サイトで読後感想を書き込みする欄があるのですが、読んでためになった、ならなかったの評価を入れ、その感想を投稿したものです。
とある生徒から、「先生、またも0000と名乗る(サイト上のネーム)人が、こんな事書いてきましたよ」と言われ、000が他の著者、著作にも一連の心無いレビューを書いていることを突き止めました。
本の読後感想というのは、個々に様々ですから当然参考にならなかった、という意見もあってしかるべきと思います。
またこのような執拗なネットストーカーが誕生した由来と正体はおいおい話すとして、この浅学のもう一つのレビューについて、ここでは異議を唱えたい。
というより、これは単に違法報告するべき内容であり、支離滅裂である。
というのも、このレビューは『気の思想―中国における自然観と人間観の展開』について書かれたものであるはず。しかし、何故?この本のレビューで私が主人公として出てくる必要があるのだろうか?
前回、読者はこの漢字悪いレビューアーが何でも知ったかぶりで、本をまともに読む知能もなく、妄想癖があり知りもしない色々なものをリンクさせデタラメなレビューをしていること気づいたと思うが、今回もまた私怨と嫉妬だけの動機がこの浅学を動かしていることを見出すことができるだろう。
以下、このレビューを青文字で引用して一つずつ異議を唱えさせてもらう。
風水の”山道帰一氏”のようなただの”五術オタク”と違ってちゃんと真面目に儒・道のメジャー古典からの引用から気の思想史とその発展を著述している。
まあ、私が「五術オタク」でも何でもいいけどさ、しかしこれはスゴイ偏見だよね。漢字も書けないキモオタに言われるとは。
もうこれのらレビューが私怨なのが見て取れ、コイツに中国思想も、風水も何一つ理解できない知能だし、本も買って読んだことがないのは見え見えだが敢えて言っとこう。
いつ私が「気の思想史」なるものを著作で展開したのか?
当然、「気の思想史」というテーマならば、儒・道だけじゃなくて、佛も引用するだろう。しかしながら、儒・道のメジャー古典から引用していないということで、風水の本の内容でもなければ、私個人に対する攻撃にすぎない。しかも、風水の本が儒・道のメジャー古典から引用していないと責められてもこれは勝手なこの浅学・レビューアーのドグマと思い込みの妄想だよね。
大体、何でこの人は自分で買ってもいない本にレビューしているのかワカラン。まして、人様の書いた本の登場人物、いや寧ろ、主人公にオレを仕立てあげたレビューならぬデビューさせられても困る。ヽ(゚∀゚;)チガウカラ
ハッキリといえば、東大に限らず、真面目に大学機関で「中国思想史」研究している人のほうが、私なんかよりも圧倒的にその分野に精通しているのは当たり前のこと。寧ろ、私自身が「中国思想」ということでいうのならば、蜂谷邦夫氏、金谷治氏、井筒俊彦氏、坂出祥伸氏、加地伸行氏、中村璋八氏、溝口雄三氏、小島毅氏など、その分野の碩学たちの書籍を参考にしている。
あくまで、私が発表しているの「風水思想」であり、「中国思想」という立場から見れば、讖緯思想の類であり、いつ私が「中国思想」の本書いたか寧ろ知りたい。あれか、ついに道教の本読みすぎて読経通り越して、自動書記できるようになったとでも!?自分の記憶にないものを自分が書くと?そんな迷信をオレが信じるとでも?
コイツと同じで、そんなことができるようになった記憶はないけどな。( ´゚,_ゝ゚):;*.':;ブッ
山道氏は本人のブログで東大を馬鹿にしきった発言をしており、台湾の五術研究会(民間アマチュア×大学の同好会?)を大いに高評価した上、日本でも民間アマと東大が交流できる場があればいつでも自論文を持ち込み日本の学者陣を「悪・即・斬!」すると鼻息を荒くしていたが、この著作を読めばその甘い考えも改まるかも?しれない。
どこでどうやったら、私が天下の東大を馬鹿にできるのだろうか?また、何の因果で真面目な学者さんを「悪・即・斬」する必要があるのか?そういうのは、この漢字悪いレビューアーのような何から何まで間違っている人に対して、している決まり文句なのだが。
また、そういう記事があるになら私に見せてくれ。最早とんでもない言い掛かりだな。この浅学・レビューアーは記憶力が著しく低下しており、文節、文節で読んだものを頭の中でゴチャ混ぜにする障害をもっていることがわかる。
台湾で弘光科技大学と中国五術教育協会が交流し学術発表会をしたように、民間と大学機関が提携することに対して好ましく思っているだけで、
その時は、喜んで論文を持って参加させていただきたい
と日本の大学機関に対する好意を書いたのであり、どこにも、
日本でも民間アマと東大が交流できる場があればいつでも自論文を持ち込み日本の学者陣を「悪・即・斬!」
と書いていない!(。`'ё´。) は~~~!?
ええかげんにせえや〜!!(゚Д゚)、ペッ!!
こいつホンマにキショイわ~。クルクル σ@( ゚∀ ゚) パー!?
どんな妄想からこの様な悪意へとすげ替えるのかは謎だが、単なる悪質な嫌がらせであり、漢字の悪い異常者のなせるぶっ飛んだ曲解。まともに本だけではなく、ブログも読んでいない。また、私とは関係がない他人の本の書評に私のブログの内容について書く時点で頭がオカシイ。
もちろん、日本国内の風水研究と伝統風水からの視座が異なる点については、自著で指摘しているとおり。また次のようにもブログで書いたのは事実。
日本における大学機関の学者さんたちの研究の浅はかさの化けの皮が剥がされて、剥官にならないようにがんばってもらいたいものです
と、書いた部分もあるが、これは風水研究の分野であり、中国思想史の分野のことではない。これがどうやって、中国思想史の学者や東大と結びつくのかが理解できない。それとも日本では、風水研究が中国思想史の中にだけ限定されて包括されているのだろうか?それならば端から私の研究する風水とは全く異なることになるし、またそんな話は聞いたことがない。この漢字が悪く、ついでに頭が悪いレビューアーの妄想。
特に、日本における風水研究の問題点への指摘などは近刊の『風水住宅図鑑』 において自著で発表し、研究の浅はかな部分については既に具体的に指摘している。「気と水の関係」「四神相応定位説の誤り」などのコラム参照のこと。
風水の研究職という立場の学者たちならば、この私の指摘した部分に対して「気に食わない」という低レベルな反応や怨恨レビューではなく、寧ろ自分たちの研究を発表し、反論するだろう。
つまり私はこのレビューアーのパンツも剥がしていないし、何もしていない。というのも、これだけ読解力がなく、反論としてのレビューの体裁も何もない怨恨レビューしか書けない人が、末端といえども研究職に居るはずがないからだ。もちろん、東大生でも東大出でもないのはよくわかる。こんな漢字悪いバカが東大にいるはずない。これは私の経験則で、私のところに習いに来ていた東工大卒や東大卒の生徒たちは、こんな漢字も書けない論点のない支離滅裂なレビューするようなアホでなかったからよくわかる。
ただ単に私と研究職として風水研究をしている学者達との関係を悪化させたいというのが狙いで、自分の怨恨を隠すための隠れ蓑にするためだけの私怨レビューだと見て取れる。もう少しこの漢字悪いレビューアーが賢かったら、本当に「大学の関係者かもしれない」と疑ってみる余地もあっただろうが、この稚拙な内容と文章で「コイツにそれはない」と、その路線は疑う必要すら無かったのである。隠れ蓑になっていないから。(笑)
ちなみに、私は大学機関における博士課程の学生などの風水研究に関する質問にも親身に答え(担当教官ではないのに)、博士論文の相談にも乗ったりしている。寧ろ、私から大学機関を線引して遠ざけたことはこれまでに一度もない!
ついでに言うと、弘光科技大学、中国五術教育協会での内容について、私も鍾進添老師も最近ではそのあり方に懐疑的であり、私達自体関係しないように一定の距離を置いている。まあ、これが民間と大学機関の交流の難しさなのだろう。
民間の風水団体は、まじないの類とか宗教(道教・密教など)と入り混じった形体と分離しきれていないため、マジメ(まじないじゃないぞ)な大学機関であれば有るほど、大学機関の信用の失墜につながらないために、民間の風水団体と交流は避けるでしょう。それは、台湾、香港、中国、韓国、日本における民間での風水の現状と実情(著しい迷信)を見る限りでは、私自身それが正解なのだと思っている。だから、私は自分の個人研究に明け暮れ、わからないことがあれば鍾進添老師にすぐに聞きに行き研究を進めている。鍾進添老師も私も、国内外を問わず、どの風水団体とも関わらないようにしているのが現状です。最新のね。
そもそも山道氏は”五術(=つまりただの仙道)”によって本格的に仙人を目指している様だが(新手の宗教?)
どう捉えてもいいけれど、これさっきもあったよな?二回もリピートすることから、これが何かこのレビューアーに関係があるのだろうか?
儒教でいう「修身斉家治国平天下」の修身を志したり、養生法でストレッチ運動や内観で打坐したら「仙人目指している」扱いされたら、朝公園でラジオ体操や太極拳している人たちから、仕事帰りにホットヨガやっているサラリーマンも、OLも皆、仙人だわな。
この漢字悪いレビューアーのロジックは歪んだ顔と一緒で頭がオカチイよ。私の著作を一冊でも読めば、宗教(スピリチュアル含む)と風水を徹底的に線引しているのがわかるはずだが。まあ、一冊も読んでいないでレビューしてるからしょうがないか。(;´д`)トホホ…
風水だか台湾茶だかなんだか知らないが仙道を語るのに”抱朴子”も”荘子”も、”淮南子”すら引用しない学者がどこにいる?
果てには私が風水と台湾茶だけではなく、いつの間にか「仙道」について書いたことになっている。私の正式な出版物で仙道について書いたものはない。
ちなみに、このレビューアーが持ってもいないし当然読んでもいない自費で制作した本に『養生大観』があるが、そこには葛稚川(抱朴子)にも触れ、『老子』・『荘子』・『列子』についても玄典として読書するものとして書いている。
つまり、またもやこの漢字悪いレビューアーは読んでもいないのにレビューをする知ったかぶりを発揮している。それは私怨以外になにものでもない。ちなみに、レビューを入れた『気の思想―中国における自然観と人間観の展開』についての内容に一切触れることもなく、「何々という古典の引用がない」と騒ぐだけの稚拙なコメントであり、内容に踏み込んでもいなければ理解していないし、買っていもいなければ読んでもいない。
この漢字悪いレビューアーの日本語が滅茶苦茶だが、仮に風水の本について述べているのならば、『抱朴子』『荘子』『淮南子』引用していなければ、風水の本ではないということならば、台湾や香港の書店で並んでいる大半の風水と書かれた本が風水本ではないということになる。また、日本においてはほぼ全滅で風水本ではないということになる。
ちなみに、私の著作で『荘子』を引用しているが、この浅学・レビューアーは読んでいないから当然知らない。
学者がどこにいる?
学者とは、「大学の専任教員、研究機関や研究所の専属研究員、博物館の専属学芸員といった職業研究者を指す」のが一般的な通念ならば、いつから私が学者になったのか私自身が知りたい。これには私も驚き。(;◔ิд◔ิ) !!!
仮にこの「学者」の定義が、「学問のある人。豊富な知識のある人。」を指すのならば、この漢字悪いレビューアーは「学者がどこにいる?」と、私が学者と比するに値する者であることを前提として質問していることから、私のことを「学者」として格別に扱ってくれていることになる。
しかし学者でも、まして知能も正常な人間のそれでもない人から、褒められても嬉しくはないのに加え、どうやって上から目線で勝手に、『抱朴子』『荘子』『淮南子』引用していなければ学者ではないと定義しているのかが理解できない。ここにも妄想を超えた、もしくは肥えた妄想の異常さが滲み出ている。
第一、中国文化を語る上で儒教系の思想を一切無視
この浅学・レビューアーは私の著作読んでいないからわからないと思うが、『完全定本【実践】地理風水大全』 の中のをカウントしても「孔子」2箇所、「儒教」39箇所も出てくるんですけれどぉ・・・。誰が全く儒教系の思想を一切無視しているって?
大体、「儒教系」という言葉遣いからして、何もわかってもいないし理解していないものが「儒教」という二文字書いているだけだといのうがよくわかる。アニオタが「萌系」ゲームが好きと言っているレベルの話にしか聞こえない。
寧ろ私は儒教思想がなければ風水の理気論は完成していなかったと述べているのだが。この漢字悪いレビューアーは私の著書を読むことなくレビューしているので何も知らないし、指摘するポイントも内容も全てデタラメの言い掛かりに過ぎない。
まず、この人の言い掛かりの内容から察するに知能に問題があるとしか思えない。正確には集中力が持続できない持続性注意障害である可能性が濃厚。この持続性注意障害とは、本や新聞を読んでいても、長続きせずパラパラッとページを飛ばしてしまったりする。そのため、記憶にうろ覚えしか残らず、「読んだ」と思い込んだイメージが残るだけで何一つ読解できていないのである。
そのためこの私怨レビューアーが、頭部外傷によるものか定かではないが、同じ内容を何度もリピートしているので、前回とかぶるが、私は儒教と風水についての関係を明確に以下のように述べている。
『完全定本【実践】地理風水大全』 36ページより引用
『玉髄眞經(ぎょくずいしんきょう)』にみられる穴の各分類は、格物致知と係りがあり、儒門の学者たちの分類がみられる。宋代の張子微(ちょうしび)(968年-975年)が『玉髄經』を著し、朱熹(しゅき)の門人であり、先賢と呼ぶに相応しい蔡西山(さいせいざん)(1135年~1198年)が、それらの膨大な図の要旨を探求した。よく熟考された思慮を持って、風水に精通したのだろう。
ここに、張子微から蔡西山へと続く風水の探求の過程に朱子学があったことは、否めないだろう。それは、理気と呼ばれる概念の誕生の瞬間でも合ったように私は考えている。
『完全定本【実践】地理風水大全』 37ページより引用
朱子学における理気二元論が風水に取り込まれたのは、巒頭の穴のもたらす運気の影響を格物致知によって分類し、風水の生気論によって配慮するという思想に顕著である。それは、儒教思想そのものであり、先祖崇拝という概念を強く髣髴させるのである。また、朱子学における理気二元論は、ここで風水思想に新しい局面をもたらす。気をどう捉えるかという気の哲学である。それは、理気の誕生を促した。
道教の荘子(紀元前369年-紀元前286年)の思想と融合した風水は、早い段階から、仏典の補修された『大蔵経』より、天体の知識を吸収し、朱子学の発展と共に、理気二元論を受容し、儒教思想に起きた変化とも思想的整合性を保ち続けた。
(山道氏の場合は近代台湾と台湾の怪しい老人達の隠し持っている秘蔵本?以外は信頼を置いていない様だが...)というのはいかがかと思われるが...
失礼な言い方だよな。誰がいつ「老人達の隠し持っている秘蔵本」以外信用していないと述べた?
異常なレビューアーの言いがかり。
少なくとも、私は本のジャッケット見だだけで中身も見ずに妄想して、レビューするようなコイツとは異なる。
ちゃんと買って、持って、読んでいますよー。中国思想から道教関係の本まで。
まあ、この漢字悪いレビューアーは買ってもいないし、読んでもいない。もちろん持ってもいないから、王允の論衝とか引用しちゃうんでしょうね。
君が隠し持っている王允の論衝こそが将に台湾の老師たちが誰も持っていない秘蔵本だよ。誰も信用しないけどね。( ´゚,_ゝ゚):;*.':;ブッ
風水古典籍は文化大革命によって散逸したものが甚だしく、学術機関が文献学的な捕集をあまり行えていないということは指摘したが、こんな言い方をした覚えはない。悪意のある妄想からくる異常な言い掛かり。
(本人のブログ上での記事を拝読させて頂くとやはり”儒教精神”に欠けている様に思われる)
せやけど、オマエはホンマにちゃんと読んだんか? あっ?((◣囲◢╬))
読んでへんやろがぁー!ヽ(`△´)/
うろ覚えの記憶が頭の中で散り散りレベルでよくいうよな程度。
この人こそ、儒教精神だけではなく、人間として必要なもの全てが欠けている。(特に知能が)
さて、ここまで二つのレビューがヒントになって、プロファイリングは既に完了している。
キーワードとヒントは既に幾つもあった。
例えば、漢字の音読みで、「衝」(シュ・ショウ)、「衡」(オウ・ギョウ・コウ)であり、『論衡』(ろんこう)を漢字変換するときに、音読みができなくて(つまり、漢字を読めない)、形が似た漢字に当てて書くから『論衝』(ろんしょう)と書くことなど、何でもうろ覚えのイメージが妄想的に先行し、イメージを優先して漢字の読み書きを行う癖がある。レビュー内容においても、ジャッケットしか読んでいないレベルで内容までは全く熟知していない。これにより、持続性注意障害などの可能性が濃厚。
しかも、人様の日本語が変と言ってプロの編集の仕事が入っている拙著に、どこがどう変かを全く説明なしに指摘をしているが、自分が読解力が全く無く、自分の理解力が不足していることに気づいていないようである。まして読んでもいない本へのレビューするからこうやって全てが間違っていることが論理的に明らかになるのである。
以下、プロファイリング。
私怨・・・私の著作以外で私のことを書き綴る執拗さ。
性格・・陰湿で陰険。表では内向的な性格。ネット上でしか自分の父性を見いだせないタイプ。「自分」が間違えた漢字を訂正することはスクリーンショットを撮られている以上、「自分」の自尊心が傷つくのでしたくない。しかしこう書かれるとしたくなる天邪鬼。「自分」の保身が強いナルシスト的傾向性のあるエゴイスト。自分の非を決して認めず、安い自尊心が強く、社会との摩擦や軋轢が強く過去に何らかの挫折をしている人。また人の目線を気にするあまり、人前では良い人でいようと努力するお調子者。例えばこの人が会社員で社内にいたとしても、あまり目立たないキャラ。営業力が弱く、自分を売り込めないタイプで社会の中で他者との競争では負けてばかり。失敗も多く大抵が人間関係のつまづきによる。そのため最終的には目立たない職業を選ぶ傾向性がある。表立って自分の主張をしない(ネット上のみ)。
脳の病・・・漢字も、読んだ本の内容も記憶に残らずに読んだ気分の陶酔感に浸っている。持続性注意障害の可能性が濃厚。
遺留品・・・人間は文体をそうやすやすと変えられないし、隠せないものなのだ。二つのレビューが語るものは多い。
過去1・・・交通事故による頭部外傷。或いは先天的要因。もしくは何らかの精神疾患や自閉症的傾向性。
過去2・・・執拗にある人の悪口を言うのは、自分がその人に依存している証拠である。的外れのレビューで、コミュ力の著しい不足。
過去3・・・また執拗さは甘えの裏返しであり、極端なマザコン傾向が強い。但し、母とは限らずに、母的存在に甘え依存し続けている可能性が濃厚。過去から現在まで。
総合判断・・上記のキーワードをつなぎあわせ、私に対する怨恨路線から捜査を進めれば、幾人かの候補の中から消去法をして答えが見える。心療内科に行きくべき人。きっと心療内科に行けば治る!(保証はないけど)
まとめと警告
本人は文体を変えているつもりでしょうが、本質は隠しきれません。誰か別の人に書かせたとしても。
インターネットというのは恐ろしいもので、それらの足跡を追跡することもある意味可能であり、IDを変えたり、コードネームを変えてもやがて足が付くというものです。
法的に開示する手段もあるのですから。
パート1に、論衝1にもどる。
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