この日、ぼくはいつもより、もっと辛辣な気持ちでパソコンを立ち上げて、Google Earth Proを開き、固唾を呑みながら画面を見入っていた。
それは、今回の熊本講演会の時に、講座受講生のツナミの家に行った時に、現地鑑定を依頼された場所から始まった。
辿り着いた鑑定先の家には、喪中の標識がかかっていた。
ツナミ:「きっと、山道先生に "仇をとってやる" と言われて、
うちの息子のタックンは嬉しかったんだと思います。」
まだ、中学校にあがって間もない二人の少年が、やり場の無い悲しみを胸に抱いていた。
一人は父親が自宅で謎の急死をし、それをどう受け止めてよいかわからない父親不在の歴史の更新を前に戸惑う、その息子(11)。
それはまさしく、あまりに唐突に起きた。
もう一人は、その悲劇の場所の近所に住み、その同級生の友人の心をおもんぱかる心優しき、ツナミの息子のタックン(11)。
ツナミ:「あの道路が通ってから全てが変わったんです。
娘も半月板損傷で、大好きだったバレエが二度とできない
身体になってしまいました。
そして、今回の息子の同級生の父親の突然死といい・・・」
世の中、悪いことが起きると何でも風水のせいにしたり、神仏や先祖の因縁にしたりする人が実に多い。
なるほど、それでは確かに風水も宗教と変わらないでしょう。
だから、私はいつも読者に言います。
ダニエル:「何でも、かんでも鵜呑みにしないで欲しい!
自分の目で見て、考えて、検証して欲しい!
あなたはその自由をもっている。」
今回、『風水パワースポット紀行』が世に問われて、「巒頭(らんとう)」と呼ばれる「姿・形あるものからの影響」を実に多くの人々が考えるようになり始めました。
パワースポットの本なのですが、風水の本でもあるこの書では、現代で起きている深刻な環境破壊とその影響についても論じています。
風水は「自然」の中の摂理にあって、その理論は構築されてきたのですが、現代ではあまりにもその対極と呼ぶべき「不自然」な世界を我々は生きています。
そのため、不自然の産物であり、その人間に手を加えられて産み落とされた人造的な景観、人工的な環境に対して、風水がどのような示唆をするのかと言うことも合わせて考えなければなりませんでした。
その顕著な実例として、『風水パワースポット紀行』の中には岩手県「中尊寺」や鹿児島県「蒲生八幡神社」などが、本来、風水の素晴らしき場所であったのにも係わらず、「斬龍(ざんりゅう)」と呼ばれる山脈(龍脈)を斬る道路やバイパスによって、脈を断たれ、凶作用が現れたことを指摘した。
今回、調査依頼を受けたのは、 熊本県上益城郡御船町エリアに2007年12月19日に開通した国道443号線のライン上のある部分だった。その後この近辺は新たな「御船シンボル道路」が2010年3月31日に開通。この近辺は目まぐるしく変化した。「斬龍」、そして龍の「吐唇(としん)」は切り刻まれた。
*詳細の住所はプライベートな内容のため割愛します。
国道443号は福岡県大川市から熊本県八代郡氷川町までの区間を結ぶ一般国道。熊本独特の環境破壊とも呼ぶべき、山脈(龍脈)を切り開き、通過させ、一部離合が難しい山間部にも強引に道路を通したりしている。 山鹿市以降は熊本県に対して縦方向に伸びる縦断(斬龍)国道となっている。
「事件は現場で起きている!」とは、当たり前のことをさも、ありがたい言葉としてよく言ったものである。風水バージョンとしては、「風水師が現場に行かないならば、風水師ではない」とでも言ったところだろう。地形図を見るだけでは足りない。
現場で「何を見て、何を感じて、何を思う」この三拍子が無ければ、判断などできやしないと常々思う。国道443号によって断たれた部分は、最も風水で忌み嫌う「入首」と呼ばれる龍(山)の首の部分だった。そこには排水も通され、死に絶えた龍から、今も血が滴り落ちているように感じた。この現場の写真は、Google Eathのストリートビューアー機能でも確認できるが、現場で目のあたりにした迫力は、風水師の中で三つのステップとして消化される。
自問するように感じられるものを想起する。そう、それはあたりと一体化するかのような作業、ぼくらはただのレンズではないのだから。飛び込んで来るものをリアルタイムで見ている。それは沸いてくる感情をリアルタイムで分析しているのと似ている。
その作業のさなか、つい先日行われた熊本講演会のホールでの光景が頭を巡る。ツナミの計らいにより、多くのお年寄りが参加してくれ、そして、涙していたという。
ダニエル:「我々がお爺ちゃん、お婆ちゃん、そして、曾お爺ちゃん、曾お婆ちゃんたちから伝わってきた日本昔話の教訓や禁忌にも思えた、日本人が勝ち得たその縁起観たちを私たち現代人は忘れようとしています。どうやって、次の世代に語っていけばよいのだろうか?
そして、子供たちに何を伝えていけるのだろうか?
私たちが聞き伝えられてきた神話、民話や民謡、語り部たちの口承による物語たちがもっていた意味を私たちは気づかずに、ただ通り過ぎているだけなのです!ただ、忘却されているのです!」
その叫び声にも似た振り絞るような声と共に語られた数々の実例に、多くのお年寄りが涙したという。ツナミのお爺ちゃんお婆ちゃんも、例外ではなかった。
大きな声で、声をからして、答えを探して叫んだ言葉たちと、目の前の光景、沸いてくる映像が複合して重なり合って、自問が始まる。
ダニエル:「昔の山師呼ばれる人たちが、今もその認識と知識を持って生きていたら、こんなところに道路を開通することに許可しただろうか?
不自然すぎる。一体何なんだろう?
何でこんなところに家があるんだろう?何で道路なんだろう?」
*上の写真は昨年の台風で崩れた台湾鹿谷郷小半天の山中道路
突然、タイムトリップして現代に飛ばされた一人の山師の気持ちになった。
そして、ミスチルの「終りなき旅」の歌詞のフレーズを思い出していた。
時代は混乱し続け その代償を探す
人はつじつまを合わす様に 型にはまってく
誰の真似もすんな 君は君でいい
終りなき旅/Mr.Children
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