声にならない声。
悲しみに打ち震え暮らす日々。
そんな被害者たちを見て見ぬふりをして過ごせる人間ならば楽だったことだろう。
義を見てせざるは勇なきなり。
風水師として、風水と名の付くものが人を不幸にしたのなら、それを追及し正さなければならない。
その原因が私のブログのリンク先の人物にあったのならば尚更だ。
他人に無関心で冷酷な人間には聞こえない声を聴いたのだ。
これまでに私は『玄空飛星派風水大全』に掲載した実例20や21に登場する風水を騙る詐欺師どもの名前や流派名など、一切述べていない。
また、本書の表現は、弁護士によるリーガルチェックをクリアーもしている。
にもかかわらず、後ろめたいことをしでかしてきたドブ鼠どもが、自分たちのことを言われたとピーピーキャキャ騒ぐわけ。恥知らずなドブ鼠どもよ、このブログの当然の指摘を非難する前に被害者たちの悲しみの声を聞け!被害を生み出した己の悪とお前たちが言うところの「師」たちに焦点当てろよ!
私は万人に受け入れられる善だとか正義だとか騙っていないし、語るつもりもない。利害があれば騒ぐ奴もいることだろう。
ただ一つ言えることは自分の良心に呵責があることは何一つ書いていないということだ。
これまで沢山の悪人を書いては裁いてきた。この場でも、現実の裁判でも。
だから、今日も言う。
声にならない声の代弁者として、被害者たちを地獄に落としたそいつらに言ってやる。
「俺がお前らを地獄に連れて行く」
と。だから偽善者どもがここを見て侮蔑してくれても構わない。
俺の良心が俺を裏切らなければいいだけなのだから。
臭いものに蓋をする前に臭いものを始末する。それが俺の流儀だから。
よく、失敗した詐欺師ほど「実践においては違いがある」などと言うが、一般読者からプロまで、誰がどう読んでも、実例20、21の結果は「実践においては違いがある」などといった生易しいものではないことは、醜悪極まりない結果を見れば一目瞭然。「何もかもが間違い」であり、「改悪」以外の何者でもない。
「改悪」とは何か。それは、風水「改善」をうたい文句に客を誘惑し、高額な料金をお客さんから頂きながら、お客さんが望むものとは正反対の最悪の結果を出してしまうことである。そして、それを行ったものは詐欺師と呼ばれても仕方がないのではないか。
風水によって良くなりたいと希求したお客さんの立場からすれば誰もこんな結末の「実践においての違い」など必要としていなかったのは言うまでもない。そんなものを「実践においての違い」などと言えば、「伝統風水」そのものが人々に誤解されてしまう。「伝統風水」を愛するものとしてそれだけは勘弁してほしい。
詐欺師が施したのは、「実践においての違い」などではなく、ただ単に「間違い」だったわけ。
言い訳は、訴えられたときに裁判所で述べるために、とっておいたほうがよいというものである。
よく風水師を騙る未熟な輩に「師」とかいう言葉を口にする詐欺師が沢山いるが、そういう人ほど何の系譜もないただの嘘つきの場合が多い。
伝統社会における本当の「師」とは何か、それは「先生」とは異なる。「師」とは師匠筋であり、系譜なのだ。
伝統社会の中では「師」の名前を口にすることが許されるのは、ごく一握りの内弟子だけである。我々はそれを「内涵」と呼ぶ。
伝統風水の世界における師弟関係は、「拜師」によってのみ成立する。拜師にあたっては、「拜師帖」と呼ばれる弟子と老師の間で取り交わされる、師から弟子へ託された願いや想いを筆にしたためた道徳的かつ人道的な書類を作成することになっている。
拜師を経ずしては「師」の名前は語れず、また、その「師」もまた自分が「師」であると自己の名前を語れない。それが伝統社会の掟であり、この拜師を経ていない「師弟関係」は、ただの騙りで「内涵」(伝統社会の系譜)ではない。セミナーの先生と生徒の関係ももちろん「内涵」ではない。
私の老師である鍾進添老師は永らく台湾に蔓延ってきた詐欺風水師の巣窟である「江湖派」に対して、論理と実技をもって研鑽し研究を深める「学習派」という立場を貫き通してきた。鍾進添老師が今の台湾の「学習派」の草分け的存在なのは台湾ならば誰もが知るところだ。
ヤクザな「江湖派」とは異なる「学習派」の立場を貫き通すことが鍾進添老師の弟子として、つまり内涵としての私の立場であり、使命でもあるわけだ。なので、このブログの記事は世間にありふれた「風水」を騙る詐欺師「江湖派」たちに一般人が騙されないように警告と啓発も兼ねている。
先ほどから述べている様に、台湾の術数に係わる人間を二分した総称である「学習派」と「江湖派」という分類がある。この「江湖派」を説明するのに、鐘義明先生(学習派)の言葉を借りれば、次のように定義できる。
江湖派とは「貪欲なる策謀をきっかけに人を欺き財物を搾り取るような人」たちである。江湖派の秘儀は、「鐵口直斷」(鉄口直断)、または「鉄嘴」(はっきりと言う)と呼ばれる、他人を脅かす話術であり、これは人に悪い暗示をかけるものである。
言わば、何とか「派」とか言って組織を強調したり、名前も言えない「師」を語ったり、こういうのは江湖派の基礎的な自己表現である。
まともな「師」に拜師していても途中で破門されたり、流派(組織)の中にいられなくなった人たちが江湖派の大半である。
そう言った江湖派の活動方法とその詐術は、現代ではネズミ講(正式名称:無限連鎖講)となり、その忠実なしもべであるドブネズミたちと共に、アフィリエイトや情報商材を使って稼ぐための講義や、生徒一人一人に対しての洗脳などが主な内容になっていることが多い。そういう人たちほど必死になって自分の立場擁護しようと「師がぁ」とか「間違いだらけの風水」とか必死になって言い訳しているわけ。
また風水を騙るマルチ商法も多く、被害者が躍起になって自分の買った高額風水アイテムを今度は別な人にも強引に売りつけ、被害者が加害者にもなって教祖を仰いでビジネスしているのを見かける。こういった者たちを「無限連鎖講派」とでも言うのだろう。(笑)
しかも、そんな危険な現場をたくさん見て、黙っていることが美徳だとか抜かす関連詐欺師も多いのが現状である。頭垂れろとか。誰が悪人に頭垂れるか!アホかお前は!
ここで一句
悪人に 頭を垂れる ドブネズミ
悪人の片棒を担ぐ奴もまた悪人だと理解しよう。また、もし、他人の風水の誤りを指摘する趣旨のタイトルを付した本を発行している人がいるとしたら、その時点でその人、十分そのタイトル通り他人を攻撃している人だから。(笑)
懐かしいなー。色々と日本の著名な風水師と呼ばれる人々を蹴落とさんばかりのことを毎日散々述べていた無名人士が、今度は自分が出版したら、その本もまたその類だったというのに笑った時代もあったなー。この人、ちっとも頭垂れていないよ~。子ドブネズミも師ドブネズミも両方とも嘘つきだな。(笑)
日本で著名な風水師と呼ばれる人たちの方が、陰でこそこそ悪いことしたらマスコミが嗅ぎ付けて一斉に叩くから、そんなに悪いことしていない人たちが多い。ただ「伝統風水」ではないが、私は「伝統風水」だけが人に正しい選択を促すことができる風水師だと述べてはいない。
風水師を名乗り「伝統風水」とは無縁でも、風水師としての本懐である、人々に正しい選択をしてもらい「改善」することを生業としている徳の高い人たちもいるだろう。
そもそも、根本的にどの文化圏にも異文化の受容により発展する段階があり、風水文化においても、それが全て「伝統風水」一色でなければならないのかと問われれば、答えは否であり、その文化圏での受容や成長の仕方とは、あくまでもその文化圏の特徴を踏まえたものであり、そして何より受け入られてこそ「文化」であると思っている。
それについて我が「師」である鍾進添老師も同じ見解だ。
「古代の風水論に際して、批判する部分を正しく精査して位置づけて整理するべきであり、「尋源察理」(じんげんさつり、源を尋ね、原理を察すること)によって、「原理」を研究する精神を忘れずに、そして、建築美術、環境心理学、など現代の風水と関わり深い学問の研鑽を怠るべきではなく、必要に応じて臨機応変に対応する融通が必要なのです。
現代建築と風水理論を適合させるための転換であり、完全に現代の環境的要求に符合させなくてはなりません。」(鍾進添老師来日講演より)
そのためにこそ、日本でも大事な切り分けが、かつて台湾でも行われたように風水だけではなく術数全般に係わる人たちの切り分けである。
それは「江湖派」(詐欺師・ヤクザ)と真面目に学術的に研究、実践していく「学習派」(実践家・研究者)という二大分類である。
必要なのは「歴史」の中に埋没することではなく、歴史・文化に適合していくことなのだ。
最近、「七政四餘」を講義していたが、この七政四餘もまた古代からの歴史、伝統に埋もれるだけでは見誤ってしまう。インドからきたナクシャトラ(nakshatra)を由来とすると思われる二十八宿だが、歴史を調べれば暦の改正に合わせて、その二十八宿の星宿も何度も修正されてきている。
つまり、この二十八宿も、ある恒星の位置を基準としているため、ある恒星の位置を基準として各星座それぞれに30度ずつを均等に割り当てているインド占星術と同じようにサイデリアル方式(siderial)を採用しなければ、時間の経過とともに不正確なものとなってしまうということである。ずっと古い歴史的な記録の二十八宿の星宿にすがり、何の天文学的成果や現代の観測技術などが反映されていないままでは、結局は使い物にならなくなる。それが「伝統的」の一言で済まされてよいはずがない。
ところで、サイデリアル方式も研究者により基準とするものが異なり、いくつものアヤナムシャがインドにはあるが、現代では公式政府を認可されたラヒリのアヤナムシャが最も広く使われているようだ。
*アヤナムシャ(ayanamsha):トロピカル方式とサイデリアル方式の天文座標の間に生ずる差(角度差)を指す。
ラヒリ・アヤナムシャ(1900年の数値から計算)
2017年度は、24.08547度(10進法)
(2017-1900)÷ 72 =1.625(10進法)+22.46047=24.08547度(10進法)
これが伝統や流派の違いとわめくだけで、古典を研究し、最新の研究と比較し精査し、何が正しいかを自らの頭脳で考えることができない能無しは、古典に埋没するだけの愚か者になり果て、いつまでも羅盤を玄関につけるような迷信家になるだけ。
何が正しいかは古典に精通し、現代知識を理解できるだけの知性があればわかる。当然無い人はわからない。「伝統」や「流派」という時代遅れの看板にすがり、ただの迷信に埋没するだけ。
そのような何の実例も示せずガタガタ外野で騒ぐだけの偽善者になることなく、古典を研究し、最新の研究と比較し精査し、何が正しいかを自らの頭脳で考えるとはどういうことか。以下に七政四餘に関する「実例」を挙げて、示そうではないか。
現代でも台湾・香港で七政四餘をする人たちは、1644年に全国に公布された時憲暦に基づく星宿である二十八宿や、『果老星宗』が書かれたであろう元から明代の二十八宿を使用していのを多く見かける。しかし、これは伝統的ではあるが「間違い」であり「流派の違い」ではない。
と言うのも、七政四餘の四餘ひとつである「紫炁」の存在は『星学大成』(1563年)にも見え、それより465年前には紫炁があったことが確認されている。紫炁とは、『天元選擇辨正』(光緒三年、1877年)で、次のように定義される。
炁生閏閏由木行與歲相應故炁為木之餘
紫炁は閏によって生じる。歳から閏を定める。木行と歳(木星)は相応としているが故に、紫炁とは木の余りである。
*閏:暦において一年の日数や月数が普段の年(平年)よりも多いこと。
暦の閏を数えて定める役割を果たしている。
二十八年に十閏月があり、二十八年間に周天する「惑星」の役割を果たしているということになる。
そのため、暦法家の多くが「十閏」(閏月を10回置く期間)を紫炁の周期とからめている。
七政四餘で一番計算が厄介なのが「紫炁」星。この紫炁の運行の計算は、歴史上何回も変更されている。例えば明代の陸位による『文武星案』(1616年)代の紫炁の行度は左のように記されている。
ところが、謝少暉による『天元選擇辨正』(光緒三年、1877年)には、乾隆甲申年(1764年)に紫炁、月孛、羅計の求め方が改変されている(左の古典にちゃんと書かれている)。
『天元選擇辨正』では「二十八年で一周する」と書かれている。そして、以下のように計算している。
紫炁起箕宿初度順行毎旬行二十一分、日行二分六秒、五旬則少減一分歳行十二度二十九分二十八年一週天。天度二万一千六百分、二十八年合十閏、得一千零三十八旬、毎旬二十一分、当行二万一千七百九十八分、五旬減一分、転歉九分、宜一百一十五旬則少減一分、恰足二万一千六百分之数而周天。
箕宿初度が紫炁の基準点となり順行し、毎旬21分、日に2分6秒、5旬(1旬=10日)で1分減とすると一年で12度29分進み、28年で1周天する。
天度21600分(360度、1度=60分、360度×60分=21600分)。28年は十閏を合する。1038旬(1旬=10日)を得する。毎旬21分とすると21798分だが、5旬で1分減とすると21591分となり、残念ながら9分合わない。よってさらに115旬に1分を加えると(減らすのをやめると)、ちょうど21600分となり1周天にぴったりとなる
つまり、紫炁はちょうど1038旬で一周するということで、1038旬は10380日であるため、28.4195太陽年となる。
というのが、現代での解釈であり「紫炁」の正体である。そして、常に天文学の最新の成果と暦を取り入れ続け、古典のコピペではなく現代の最新の知識によって修正されてこそ古典を活かすことができるのであり、古典は宗教の猛信(猛烈に信じる)するための経典ではない。
西洋占星術の「アセンダント」(第一室)、インド占星術の「ラグナ」(第一室)と呼ばれるものは同様の概念である。但し、西洋占星術はトロピカル星座帯、インド占星術はサイデリアル星座帯を用いるため、24度(2017年時点)ずれている(太陽の進行方向と逆行する)。インド占星術では古典に埋没するのではなく、そのずれを最新の天文学の成果で修正してきている。これが正しい古典と現代人のかかわり方だ。
それと同じく、七政四餘の星宿も恒星で、天球に恒常的に固定されているわけではなく、50年で1度ぐらい動くため、500年ぐらいとなると10度程度変わり、その修正は確実に必要となる。元来、古典では改暦を通じて、その影響が大きくなる500年に一度は二十八宿の大規模な修正をしてきていた。ここを「歴史」や「古典」から見落とせば、現代でも「流派の違い」と言いながら、1644年に全国に公布された時憲暦に基づく二十八宿や、『果老星宗』が書かれたであろう元から明代の二十八宿を使用して人様を鑑定し、人様の運命を見誤ることになる。
「間違いは間違い」であると、ご理解いただけたであろうか。
まあ、偏差値38レベルの高校すら卒業できなかった人たちには近寄り難き分野ではある。(笑)
【余談】
今年は北京大学が開催する風水の論壇に日本代表として招聘されており、研究発表をしてきます。こうやって、日々変化し、風水も江湖派一色の時代から、着実にアカデミックな学習派が大学機関となって表れてきている。というのも北京大学には術数研究所(易経応用研究所)が開設されたのだから。
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