この員林という大地に立ち気づいたことは、太陽を抱くような、まるで何かの懐に潜り込んだ温かみでした。それは、何かに守られているような感覚です。なるほど、上空から見ると台湾の中部で西の海に面した員林は確かに、一匹の龍が湾曲して懐に員林を抱いているようにも見えます。
きっと、張家は、この龍と縁(ゆかり)が深いのでしょう。
いつも、見知らぬ新しい町に来ると、想像したりします。それは、ぼくが「If シリーズ」と呼ぶ連想です。「もし、この町に自分が生まれたらどうなってただろう?」と、時間を遡って想像してみたりします。
員林での「If シリーズ」では、2種類の選択肢が出てきました。
① 割りと早く結婚して、幸せな家庭を持ち、五術とか言われるものと全く関係ない生活をしている。
② ゆったりと流れる時間が、自分の志向性に消化され、強靭な自分の思想を練り上げ、この町に収まりきらなくなり、もっと広い世界へ羽ばたく。
張明澄先生は、明らかに「②の選択をした人生だっただんなぁ」と、思いながら員林を眺めてみると、員林が自分を退屈させるだけの恐ろしいものに見えたりもする。また、①の選択で員林を眺めると、「ああ、穏やかだ。癒しだね。平和だよ」なんて、くつろいでしまう。
この日、点と点を結びながら橋渡しでたどり着いた街角の小さな病院で出合えた張先生の弟さんである張春男さんは、明らかに①の選択をした御仁でした。
員林で、医業を営む張春男さんは言います、「皆、父親の影響で、医術に対しての造詣は深いが、兄貴だけが、曾祖父にあたる王文澤からの家督を守り、五術全般に精通していた」。
張春男さんは張先生に目元がよく似にています。お互いに、紹介を終え、開口一番に「どうやってここに来たの?」と、聞かれましたが、答えは簡単で、「導かれるままに」です。
次は、ぼくが質問する番です。ぼくは恥ずべきことに、嘘をつきました。
「張先生のお墓はどこにありますか?」
そう、本来無いとされているはずのものですので、ぼくはこのように言うことしか思いつかなかったのです。というのも、隠されている可能性があるからです。
一瞬怪訝そうな表情を見せた張春男さんは「ああ、兄貴の墓ね」と言い、「○○村にあるよ」と、言いました。
「ああ、やっぱりあったんだ張先生のお墓!」と、ぼくは今回の旅の目的達成に安堵しました。
一人の弟子として、「お墓参りしたいのですが・・・」と、切り出すと、「兄貴の許可が必要だから電話して聞くから待ってて」と言いました。
なんと、張先生のお兄様である長男の明彦さんは、まだご健在だったのです。しばらくすると、張明彦さんは病院にやって来て、「明日、もう一度来てください」と言いました。ついさっきまで、受付の人、二人に「張家?知りません。」といわれた病院が一瞬にして、張家の人のたまり場に・・・。「もう、黒いジャンバーを着るのをやめよう」と、自分に言い聞かせました。
その日の夜は、梅山に行き、一泊し、次の日の午前中にまた員林に来ることにしました。
ちなみに、張先生のお兄様である明彦さんは、文学を研究なさっている方で、日本文学にも造詣が深く、日本語を日本人と全く変わらないレベルで話します。それ以上かも。
その日は、色々な想いが頭を過ぎり、交錯しました。というのも、遺言に従って、散骨されなかったと言うことは、「明澄透派を十三代で閉めるのではなく、十四代目を決めなくてはいけないということを示唆しているのでは!?」と、もう、今はいない張先生が、何をどう思って、今の状況が作り出されている象意なのか読み解かなくてはいけないと、残された想いをたどった壮大な旅が逆にはじまってしまいました。現実に迷ってしまい、こころが震え始めました。
「どうすればよいのか分からない。」
「次の点は、どこに?」
「次のドアは?」
老師の死を受け入れ、現実の悲しみに浸ることを拒むかのように、現実に迷いながら、次のドアを模索しながら、いつしか疲れきっていたため、眠りに落ちていったのだと思います。
もしくは、この現実の思考の中には、答えはなかったのかも。
「・・・次のドアは?」
やっぱり、ぼくは夢を見る人。
これは、ぼくの祖母からのギフト。
さっきまで、自分が考えていた記憶が残ったまま、世界だけがゴロンと変わる。そう、そこは夢の世界。
ぼくは、いつしか川原で寝転がっていて、目が覚める。
すぐに、ここでこれから起こることを理解した。辺りは、一面石ころが転がる川原で、ぼくは深遠な緑色、翡翠の様に澄んだ色で、緩慢と流れるゆうに河幅100メートルはあるだろう、河の向こう岸に一人の人影を見つけた。
「張先生!」
すぐに拝師した。
互いの声は聞き取れないほど、河幅は広い。白い服を着た張先生の声が聞こえない。
おもいっきり叫んだ。
「どうすればよいんですか?どうれば・・・」
朝のアラームが、耳元に響き夢から醒める。だが、不思議と頭はすっきりしていて、昨日までの思考の複雑さが一切ない。
ただ、頭が馬鹿になったように何も考えが湧かずに、「張先生のお墓参りに行かなくちゃ」と、自分の思いついた行動に従うかのように、慌ただしい朝を駆け巡る。正確には、お墓ではなく、納骨堂だ。そこには、代々張家の方々が眠っている。お父様の張木さんも。
張先生の納骨堂は、きれいな龍穴の上にあり、穴を守っている構造になっているので、安心しました。張先生を含む張家の八兄弟は、四人が日本に行き、張先生を含む日本に来た三人が、『中国人名事典』にも載るほどの研究者として大成した。
残りのお一人である張武彦さんも、日本で歯医者として立派に開業医を営んでいます。台湾でも、大学でお一人教鞭をとっています。また、お兄様の明彦さんも、日本の文芸思潮に日本語で書いた小説が掲載されたり、小説家としての活動にも、目を見張るものがあります。
弟さんの春男さんも、台湾の呂秀蓮副総統から「神医」と評され、感謝される看板まで送られるほど、評判のお医者さんです。6人が研究者として名を馳せ、2人がお医者さんになりました。
ちなみに、こうやって張先生のご兄弟を分析すると、ぼくが員林に着いたときにやった「If シリーズ」で、見事に二つに分かれて、四人が日本に行き、四人が台湾に残ったと言うことになります。どちらの選択肢が良かったと、そういうのはなく、生き方だったのだと思います。
この日、お兄様の明彦さんに案内され、納骨堂にたどり着くことが出来た。長い道のりだった。三年越しの。納骨堂の二階にあるロッカーの一番下に、「張明澄」と書かれていた小さなドアがあった。拝師したまま、頭がただ呆然とした。
普通は、ここで自分の名前をいわなくてはならない。だが、後で振り返ってみると、名前を言うのも、忘れてただ呆然と立ち尽くした。起き上がると、横にいた明彦さんの目が潤んでいた。
明彦さんは言う、「私と明澄は、二年半しか年が歳がかわらない。兄弟の中でも、一番近く、一番仲がよかった・・・」。
そして、この「ドア」に向かう旅もここで終わるはずだったのかもしれない。あの夢さえなければ・・・。
今回の旅で、巨人張明澄についての自分なりの見解と理解を得たのは、大きい成果でした。
一言でこの成果を言うならば、「巨人張明澄は、やはりケタ外れの人間だった」という、事実を再認識したことです。
張先生のお兄様は言います、「明澄は、膨大な古典研究をした。そして、現代の解釈を持って、その古典を甦らせた。明澄ほど、古代漢文を自在に読める人間は、中国大陸でもそうはいないだろう。仮に何人いたとしても、古典の中で展開される古代世界観をそのまま、現代の世界観に持って来れない。明澄は、現代の思考をもって、古代思想を読み解いた。つまり、明澄の最大の功績は、現代解釈で古典を復活させたことにある。そして、古典に入り込むだけではなく、現代の解釈に打ち直すという作業は並み大抵の作業ではない。明澄は、日本に現代解釈に読み解かれた五術の歴史と文化を伝播したのだ。」
まさに、明澄先生は、タイムトラベラーだった!
何という、識の高さだっのだろう!
そして、家族に愛された太陽のような人間だったという事実が、ぼくの心を暖かくします。
張先生のお兄様、明彦さんが言いました。
「あいつは、40歳を過ぎて近視になった。普通は、若いときになるが、その年齢で近視というのは、あまりない。尋常じゃない読書量が明澄の視力を奪っていった。日本に行ったとき、あいつは言った「多分、日本で私以上に本を読んでいる人間はいない」と。自分の弟のことを言うのもなんですが、一代の突出した天才でした。また、あいつは就職もしないで、日本で自分の力で、二人の娘を立派に育てた。」
こんな言葉を家族からおくられる張先生を素直に尊敬しております。
張先生が生前、「兄弟って良いものだよ」と言っていたことに深く納得です。明彦さんは、素晴らしい張先生のお兄さんです。語る言葉一つ一つに愛情が満ち溢れ、そして、明るく振舞う言葉とは別に物寂しそうな顔をたまに見せます。
中国では、亡くなった人を弔問するに際して、亡くなった人の思い出話をみんなで明るく話すことが大事なのです。そうすることで、亡くなった人が喜ぶとするのが慣わしなのです。
この日、明彦さんと、春男さんと三人で、語らい、笑って、張先生の思い出の回廊に入り込み、張先生とまた会うことが出来ました。
ちなみに、ご家族の方にお墓のことで、ウソをついたことを正直に話しました。ただ、うなずくばかりでした。
また、この日見た夢のお話をご家族の方たちにお話しし、「十三代続いた明澄透派を絶やすな、ということでは?」と、ご説明したところ。こんなあやしい夢の話に疑い一つ持つ様子なく、聞き入ってくださいました。これが、張先生より教わった心と心の偽りないコミュニケーションである「神功」です。言葉よりも多くの情報を「神」で伝えるのです。つまり、心が語り合う世界では言葉なんて要らないのです。
そして、第十四代目を決めることに同意してくださいました。ただし、張先生の奥様からの許可が必要ですが。
その後、家族の方も知っているということも手伝って、張明澄(耀文)先生の台湾時代の師兄(兄弟子)である黄耀徳先生に白羽の矢が立ち。黄耀徳先生と会うことに・・・。
この後の偶然に次ぐ、偶然の展開は、ブログで公開できないことをご了承ください。
ただ、一言いうならば、「大手印までいった張先生の残した掌(てのひら)の上を、もしくは、プログラムをトレースしているんだなぁ」と、感じました。
明日また、ご家族の方にご報告することがあるので、員林に行きます。
今ぼくは、次のドアを見つめています。
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