2009年11月 1日 (日)
張明澄先生の六回忌
員林の町はのどかで、多分何年経ってもあんまり変化無く、どこか発展するのを嫌がっていて、のほほ~んとしています。
そんな町が決して嫌いというわけではなくて、どこか落ち着いてしまい。台湾に戻ると、必ず寄りたくなる場所となってしまいました。
先生に今年ご報告しなくてはならない内容は山積みですが、既に仙崖境を越えられた先生にご報告してもご迷惑だとは思いつつも、今日は特別にご報告申し上げます。
張先生。張先生のお兄様の張明彦様も大変お元気にしております。執筆にものすごく力を入れていて、その書く量と速度は尋常ではないです。いつも、原稿をお分けしていただき、武狭小説はとても面白いです。今年出展されている文学賞関連の受賞を今か今かと心待ちに第一報を待っております。
また、お兄様から教えていただいた方剤には、とても助けられております。先日も、漢方薬の農薬問題と輸入時における問題を指摘した『自由時報(10月1日)』のありがたい記事も送ってくださり、大変お世話になっております。
今年は、お兄様からのご指導もあり『養生大観』を世に出すこともできました。
私にとっての今年も感慨深く、先生の国小からのクラスメートであり、朋友でもあった鍾進添老師に、拝師を許可され内弟子にしていただきました。全ては、張明澄先生のおかげであります。そして、山道帰一ただいま猛勉強中でございます。
鍾進添老師のように台湾でここまで研究されている五術の専門家はいないのではないでしょうか。台湾でいないということは、世界でもいないということですよね。一重に、先生の持つ仁徳よって、鍾進添老師に内弟子の列に加わることを許可され、これも先生にお礼を申し上げなければなりません。
先生が仙崖境を越えて、早くも六回忌を迎える本日ですが、弟子の気づきから述べさせていただきたいと思います。
「人の魂は時代も場所をも超えて繋がりあえる」ということが、自分の中で拡がりを持ち始め、今その真の意味がわりかけてきました。東派ではこれを「遊魂」と呼び、伝人であった兄弟子の玉靈大仙しか伝授もされなければ許可されない部分であり、私にはその資格がないのは重々承知しております。
ですが、探求することをやめられません。
私はこのまま探求を続けてよいのでしょうか?
それが背くことになるのならば、すぐにでもやめますが、「自分で考えろ!このバカ」とか、言われそうなので、この答えは自分で明かすということでいかがでしょうか?
残された我々弟子一同が今できること、それは明日をも決められない自分になりきるのではなく、明日に繋がる今日を過ごしてゆく日々の中に答えはあるのだと思います。
連綿と流れる時間に断続は無く、もし途絶えることがあるのならば、その背景で人の意識がその繋がりを手放してしまうからだと思います。
未来に繋がる糸となり未来を紡ぎたい。
もし、この現代に流れる時代の潮流が、もの申さずとも良かれ時代ならば、黙って社会の一部となり、沈黙をし、社会に貢献すべく、町医者にでもなって、幸せな日々を過ごしていたかもしれないと、員林で医業を営んでいた張家と張明澄先生の想いを辿りながら、自分に重ね合わせて思うこともしばしばです。
しかし、現代において医者として自分を考え一番深く思うのは、この病んだ社会と時代を治療せずして、一体何を治療するのだろうという素朴な自己欺瞞でした。
化学物質過敏症、シックハウス、アトピー、アレルギー、喘息、花粉症、増殖するがん細胞のように転移する病の背景にいつもあるのは、「踏み外した世界」でした。
「こんな世界が見たくて大人になったんじゃない!」
と、子供の自分に戻れたら叫ぶでしょう。
自然との対立、派生する異常なウィルスが見せた都市構造の弱点。都市で暮らせなくなった全人口の10%を越すといわれる化学物質過敏症の人たち。私は化学物質過敏症の人たちを患者と呼びません。それは、未来に対して警告を持った超自然的な存在そのものだからです。
というのも、彼ら彼女らのセンサーで感知できるものの基準は、何一つ間違っていないからです。
地球上に存在する物質の成分は、100数種類の元素によって全て化学式で表すことができ、全ての物質の構成要素である100数種類をいじり配列と化合を変えた結果生まれてきた様々な化学物質。しかし、この地球は有限であり、循環を繰り返す水は人間の魂のごときものであり、地球内における水の循環を肯定し、人間の心が無限であることを認める共通認識の上に立てば、我々の魂もまた循環しているのではないでしょうか。
それは、誰かが流した涙が果てしない時を経て、誰かの身体に根付く生命の一部となって甦る。そして、誰かが流した涙の感情の記録は誰かの記憶に宿り、その感情は伝染するかのように誰かの心に残り続けて、この涙とこの残った記憶が再び出会うのならば、水のごとき循環する魂の生まれ変わりを誰が否定することができるというのでしょうか。
もちろん、涙は分解され塩分と水分に分離して、その水分も悠久の循環の中で、姿かたちなど留めることは無いでしょう。
そのように一粒の涙を追う冒険とは、一つの魂を追うがごとき探求であります。
私はこの薄汚い都会に残され、躓いたり転んだりしながら、そこから目を背けることなく無味乾燥の埃に塗れて徘徊しています。
それでも乾くことの無いこの心は、一粒の涙を老師に捧ぐ。
山道歸一(清松) 敬上
<関連ページ>
張明澄先生の六回忌
清明節
秘密集会の夜
張明澄先生の五回忌
明明澄透派・講座開幕
星の光
明澄透派のプログラム
張明澄・風水の世界
張明澄記念館開幕
張明澄先生のお墓参りⅤ
張明澄先生のお墓参りⅣ
張明澄先生のお墓参りⅢ
張明澄先生のお墓参りⅡ
張明澄先生のお墓参りⅠ
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コメント
いつも拝見させていただいております。山道様の思いがあふれている文章に、コメントなど付けるのも無礼かと思いつつも、また勝手なことを書かせていただき失礼します。
一滴の涙は、そこからこぼれ落ち、記憶の奥底に残る。たとえそれが万人の知るところではなかったとしても、想いの海原にはつながりいつか誰かのこころに水紋となり広がりゆく。
受けとめた涙はやがて、誰かの想いとなり、脈々と受け継がれていく。受けとめていく事でしか、亡くなった方への思いを表すことは出来なくて。
山道様の中に受け継がれている思いがいつかまた誰かへと。そうして人は生き続けている。その事が生きる証となるように、人は生きなければいけないのかも知れませんね。
長々と失礼いたしました。
nanashi |
[URL] | 2009/11/01 19:39:43
nanashyさ~ん
いつも真心のこもったコメントをくださり、ありがたい限りであります。
ふと、色々な方々、それこそ色々な立場の方々が、ぼくが張明澄先生に寄せた文章を読んでくださり、「ああ、弟子だったから、こういうことを言うのか。人としてその心境はわるよ」などと、ぼくの想いを見つめてくださることと思います。
でも、実際のところ自分の胸のうちでは、先生だったからだととかじゃなくて、一人の張明澄と呼ばれた「人間・張明澄」について思うことのほうが多いです。
というのも、先生と弟子の関係が先生の死後に残され、当然、我々弟子としてはそれを背負って行くわけですが、高名な先生と、その弟子という関係の中に自分を埋没させるのではなく、そのような世間での評価や世間が思う関係とかじゃなくて、そんな世俗的な事柄や伝統だの流派だのを越えて、見つめ続けているもの、常に意識してしまうものがあります。
先生が分っていて、自分が当時、見えていなくて、わかっていなかったかも知れないこと。
色々知りたかったこと。全ての時間が止まって、歴史が不在になるということ、もう戻らない過去のこと。先生が残した想い。見つめ続けたもの。
幾つもの世界!世界!世界!
それが幾重にも張り巡らされていて、その会話が、まだ続いているという事実。
この旅が終わっていないから、歩き続ける生あるが故にできる探求を少しでも多くしたい。
そこには、対話だけが残されて、そして、その対話に応える形がここまでの歩み、このブログを始めてからの日々に連なっています。
それは、巨人・張明澄の世界をもっと見たいという想いと共に続いているのだと思います。
だから、この会話が先生と弟子という偏狭な範囲の中では、不可能なことであり、私は「人間・張明澄」を生き生きと見つめてしまうのです。
そして、途切れることの無い対話は、多くの示唆と暗示を含み、繋がりが続きます。
例えば先日は、初めて電話で佐藤六龍氏とお話もしました。
対話と繋がりが、そういった状況を生み出しているのではないでしょうか。
歴史の不在が、新たな存在を生み出し、我々の魂もまた循環していることを痛感いたします。人が生きて行き、たとい去っても、残されたものは言葉と文字だけではないのです。
人はわかり合えないから、わかり合いたいのかもしれません。
そこに、先生と弟子などから世間で想像されるように現れてくる人間関係で臨むのではなく、あくまで、人間と人間として生ある表現をぶつけ合いたい。
そんな世界でしか、少なくともオレは生きることができない。
そこには、一切の権威を排除して、素の人間である「オレがオレであるから」と、自分の道理を説きたい。そう、一人の「人間・張明澄」を見つめ続ける者として。そこには、「弟子だから」などという主張や情けない権威などは一切が必要なく、そんなものが介在してはいけない権威を排除した世界で自分の主張を表現したい。
一人の人間として、「人間・張明澄」をより多くの人に再考してもらいたい。
追伸
ちなみに、鴨書店さんはとっても良い人たちです。
比べて未だに先生の悪評を垂れ流す原○房は気が狂っているとしか言いようが無い。そんなに捏造した悪評を書店に訪れるお客さんに流したいならば、「張耀文」「張明澄」と書かれた本を一切売るなよ!
先代から、先生の名前を冠した物を売り続けてその本のおかげで少なからぬ利益を上げて、そのお金で育てられたくせに恩も義理も無いのかこの本屋の店長は人間が腐っている。
ダニエル |
[URL] | 2009/11/01 20:18:54
山道様
コメントありがとうございました。
>人はわかり合えないから、わかり合いたいのかもしれません。
私も確かにそう思います。
わからないから、理解できないから、と言ってしまえばそこで終わってしまう。たとえ亡くなった方の想いでも、もう声を聞くことができなくても、その思いを汲むことは出来る。その方が生前、何を見て、聞いて、理解しようとしていたのか?その気持ちがあるからこそ、人は人を大切にしていこうと出来るのではないかと思っています。
私も、出来ることならその声を聞きたいと亡くなった方に対して思ったことがありました。忘れることが供養なのでは?と思っても、どうにか真実を知りたいと思うこともありました。しかし、生きていく中でその人に教わったこと、それを生かしていくことも大切なのではないかと思うようになりました。
張先生と、人としての繋がり・・・。そういった本来の想いこそが生きていくうえでの糧となり、また未来へと先生の想いが紡がれていく。歴史を知るということはそういうことかもしれないですね。先人の成し遂げたことだけではない、「人」としての生き方を知る。そういう生き方をされるのはただ通り一辺倒の気持ちでは出来ない事かと思います。
これからも応援しております!
敬具
nanasy |
[URL] | 2009/11/01 21:03:22
nanasyさ~ん
通信講座のテキスト作りに追われて、すっかりコメントが遅くなってしまいました。
人はこの未来に爆発的な可能性を持っています。
ただ、自分で自分の可能性を限定してしまうことが悔やまれてなりません。
それは忘れることではなく、背負って行くことから始まるのだと思います。
>忘れることが供養なのでは?と思っても、どうにか真実を知りたいと思うこともありました。
真実はどんなに時間をかけても知るべきだと思います。
辿りつかない真実への道を心に残して進むということは、途切れてしまうことであり、それはとても悲しいことなのです。
というのも、忘れてしまうことのほうが悲しいと感じたら、それが正解なのではないでしょうか?それが、本当の供養なのではないでしょうか?
少なくとも、ぼくは忘れてしまうことが悲しい。
だから「とても、悲しい」と自分の痛みを素直に肯定できる。隠して忘却させて、自分を否定できないから。
その痛みが、ぼくを走らせ、その悲しみが、ぼくを練り上げている。今も。
つまり、忘れないで刻んで生きたい。それがどんな痛みだとしても。忘れるという安楽な薬で意識を薄れさせることなどできない。
自分を被害者や犠牲者だと決め付け、そこから逃げるのではなく。その痛みを受け止めたい。そして肯定してあげたい。
そう、その痛みがなければ自分のいまある存在をとても肯定できそうにないから。だから、そんな数奇な運命、皮肉な運命にも笑顔で向かい合えなくても顔を背ける事などできはしないのです。
どうか、nanasyさんも凍えたからだの半身(思い出)を抱きしめて、暖めてあげてください。
どんなに願っても、祈っても、声がきけなくても、そこにその場所にその人は、まだ見えるから。自分を騙してまで、忘れさせることに意味はないのです。
だから、nanasyさんはまた会えるでしょう。
こんなひとかけらの慰みしか言えない自分をお許しください。
誰もが大事な人に逝かないでほしいと切に願う。
でも、残された我々にできること。
もう止まってしまって、更新されなくなった時計と歴史を背負って、そこから前に進むことではないでしょうか。
そうやって想いは紡がれて行くのだと信じています。
ダニエル |
[URL] | 2009/11/06 1:59:41
無農薬、無肥料の自然栽培、有機栽培野菜、無添加食品など、
本当に良い商品多数販売しております。
こちらにお集まりの皆様に是非ご紹介したく書き込みをさせて頂きました。
『無添加生活 美容と健康の種』
http://tane.chips.jp/
もしご迷惑でしたら、削除ください。
よろしくお願いいたします。
三田 |
[URL] | 2009/12/27 16:25:23