いずれは、子供達に夢を見せるものを作りたいダニエルです。今は、ご存知だと思いますが、「切り開く」開拓時代です。
一人一人が立ち上がり、この「腐った時代」を切り開かなくてはいけないと痛感し始めている日々です。周りにいる一人一人の士気は高いです。
そして、来るべき開墾時代には、畑でも耕しながら、名刺の必要な生活から開放されたいですね。皆に率先垂範できるぼくの名刺を自分で作りたいです。相手の手の平に指で、「山道帰一・裸の王様」と書いてあげるだけでも良いことかもしれません。(→ܫ←)
それだけに名刺も「裸の王様」で実際には必要がないのです。(笑)
それは、剣の達人が剣を握らなくなった無刀の領域なのかもしれません。まさに、裸の王様の領域です。(´^ิ∀^ิ`)
ダニエル・デザインによる阿藤大昇氏のあの名刺にある化け物とそれを退治しようとする力士、それは善と悪の葛藤。そして、どちらに寄ることなく保たれる平衡。偏ることが危険であるという象徴。
古代ローマの時代には丘の斜面から独立建築物として街中に進出し、コロシアムの様な巨大な円形劇場が建設されましたが、このコロシアムで行なわれた奴隷の剣闘士たちの殺し合いに見られる「生と死」は、古代のソフィスト(哲学者)たちは、そこに魂の影絵を見出しました。
ちなみに、フィロソフィアとはフィロス「愛する」とソフィア「知恵」の合成語で「知を愛すること」を意味します。
ソクラテス(BC469年頃 ―BC399年)は人間にとってもっとも大切なこととして、「知」の探求を取り上げ、それは「無知」と「思いこみ(ドクサ)」に対する戦いであると考えました。
*ドクサとは、事実ないし真実に対して、当人の思い込みにすぎない事柄。
そして、「限界概念」の突破とは、古代ギリシアで、知を目指す人々(ソフィスト)が出会った「思いこみ(ドクサ)に対する戦い」と同じ意味です。
「限界概念」の突破とは、ソクラテスの哲学そのものでもあるわけです。哲学の世界では、行き詰ったら、常にソクラテスにもどれという格言がありますが、今まさに、「ドクサ(思い込み)」を捨てるための作業、無知を自覚すること「汝自身を知れ」という言葉が問われている時代のように感じます。
この名刺を見たりした人の中には、「ドクサ(思い込み)」から発展し、自分の正義感で、何を勘違いしたか、「間違っている」という考えを持つ人間もいましたが、そういう人間は、全く哲学ができないんですね。
原因は、「ドクサ(思い込み)」を捨てるための作業、自身の偽善に満たされただけの自分の正義という名前の、「ドクサ(思い込み)」と向かい合い戦うことができないからです。
まさに、ここにこの力士と化け物の戦いの葛藤があるのです。つまり、この絵こそは、思い込みという概念と正しい知を求めて戦う人間の魂の葛藤の影絵の構図があるのです。そして、それこそは阿藤さんが求めた「限界概念」を突破するということをうたい文句にした名刺の構図化された姿なのです。
無知を自覚すること「汝自身を知れ」が、できないと人間性の発達は未発達となります。つまり、裸の王様は、二種類あります。意識した「自身を知る」裸の王様と、無意識の「ドクサ(思い込み)に満たされた」裸の王様です。裸の王様が自分が本当にフルチンであることを知らないのが「ドクサ(思い込み)に満たされた」裸の王様です。(❝ฺ_❝ฺ)
学生時代から続けた「無知の知」を日々よく想い、反芻を繰り返すダニエルです。
最後は、ドサクサに紛れてフルチンになって、明かすダニエルの二種類の「裸の王様理論」で終わるという、今日の落としどころです。
風水でも、何でもそうだが、「思い込み」を捨てなければ、新しいものは何も学べないし、ただの自分が延長されただけの妄想中毒、危ない「裸の王様」になってしまうだろう。 というか、最近、いつもの落としどころが、裸の王様のような気が・・・。(。◕ฺˇε ˇ◕ฺ。)
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