一週間にわたる授業は何よりも楽しかった。そして、師と弟子がお互いを見極めるのには十分な時間だった。
台湾の五術流派は大きなカテゴリーで分別すると、二種類に累計される。
一、江湖派
派閥を形成し、大きなお金が動くことよりその組織構成は黒幫(ヤクザ)社会のような組織構成を持ち、厳密な江湖時代からの武侠社会のようなルールを形成している派閥たちである。近年の台湾では、曽子南先生の残した派閥が顕著に該当する。互いの派閥同士交流がない。
二、学習派
自ら組織である流派を名乗らずに、研究と研鑽を行いその形態は自然発生的なものであり、決して組織的なものではない。つまり、流派、門派という区切りにとらわれていない研究団体である。近年の台湾では、唐正一先生、鍾進添老師や鐘義明先生などに顕著であり、互いに交流がある。
そもそも、鍾進添老師に対して「師と弟子のトラブル」に対する申し開きをし、「拜師と悪魔」は行われていないことを明確に説明した。
張耀文(張明澄)老師が世を去って、もう五年が経とうとしている。兄弟子と共に、内弟子として仙学東派を学ばさせてさせていただき、今でも感謝の念を忘れたことがない。
そのため、張耀文老師が残された一代体系である明澄透派を掛川掌瑛師兄と十四代黄文徳師兄と共に残そうともしている。
ただぼく自身は、研究研鑽することをやめられない。だから明らかに第二番目のカテゴリー「学習派」に区分されると思う。
台湾の五術世界で今でも、美談とされている話がある。
張程澇老師に拜師した張耀文老師は、子弟の関係であった。その後、五術を研鑽し続けた若かりし日々の張耀文老師は韋千里、袁樹柵などの一名を馳せた人々より学び続け、いつしか張耀文老師は俊才としての名を馳せる。
その活躍を聞きつけた張程澇老師は、なんと!
弟子の張耀文老師に拜師し、勉強を続けた。
「師渡徒。徒渡師。(師が弟子を育て、弟子もまた師を育てる。)」美談として、今でも人々に語り継がれている。
ちなみに、私はこの話を張耀文老師の小学校時代のクラスメートにして、鉄筆子の長男であり、五術名家を鐘で鳴らす鍾進添老師より聞かせていただいた。
鍾進添老師:「誰かが私が明澄の透派を否定する内容をコメントしたと言うが、そんなバカな話があってたまるか!」
温厚でおとなしい鍾進添老師が多少興奮したように一言言ったのをぼくは聞き逃さなかった。
クラスメートにして、最後まで連絡を取り合っていた五術世界の同志、ライバルだった張耀文老師の悪口を言うはずないのは、鐘義明先生の書いた一冊の本が全てを物語っている。
『中國堪輿名人小傳記』である。
ここに張耀文老師を堪輿(風水)の名人として紹介する伝記が書かれているが、それは全て鍾進添老師が提供した資料に基づくと、著者の鐘義明先生は述べている。
日本から来た心無い輩に流された噂に対して、 鍾進添老師の顔は憂いをたたえていた。そして、何よりも悲しそうだった。鍾進添老師は台湾から早くからいなくなった朋友・張耀文の名誉を守り続けていたのだ。それを正反対の噂の題材に自分の名前が曝されたことを弟子からの報告によって知ったときのショックは大きかった。
あまりにも早く逝ってしまった明澄との思い出に耽る鍾進添老師を見ていて気の毒に思った。
内弟子しか学べない領域があるのならば、それはそれでしょうがない。でも、それでもやっぱり「天星法」を鍾進添老師に習いに来て良かった。
講義三日目を過ぎて、鍾進添老師が一言言った。
鍾進添老師:「君に拜師を許可する。」
拜師典禮Ⅱにつづく。
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