台湾で風水のフィールドワークをしているとき、よく耳にしたのが曾子南の指導によって生前に陰宅をつくり、爪や髪の毛を埋めておく開運方法であった。まだ死んでいない人の陰宅をつくり、開運するというものだ。一つの墓地につき現代の価値に直して3,000万円以上という高額な料金で、当時のセレブ階級の間で流行っていた。テレビCMにまで流れていたという。
マスコミュニケーションコントロールなのだと思ってしまう。それは、現代とまったく同じだ。この部分はいち早く現代と折衷できていた部分なのかもしれないが・・・。苦情処理に対応していなかったと言う悪い評判を頻繁に耳にした。
その理論の依拠する考え方も理解できないのに加え、この陰宅もどきの失敗事例などの評判をたくさん見聞きしてくるうちに懐疑的になってしまうのは拭えない気持ちであった。(あくまでも個人的な意見だぞ!)
そして、それがこの人たちのホームであり、フォームであると歴史が判定することを否めない。
ぼくは自分が手がけた陽宅・陰宅のクライアントは、家族のごときものだという態度を忘れたことがない。手がけた後も連絡を取り続けるし、何か起きたら、すぐに対応する。そして、いつも皆の「一家の顧問」だと自分を説明する。だから、料金設定も決して安くないかもしれないが、自分の生きているうちに面倒を見られる家族の数も時間と共に制限されてしまうということを理解している。
だから、値段によって制限されてしまうと思われがちなのかもしれないが、その覚悟と私をそれだけ必要としてくれる人のもとで働きたいという想いがぼくを走らせる。大量生産の工場の機械のように量産することができれば安いのかもしれない。でも、ぼくはお金だけで動く機械人間ではない。
大抵はお金のことなどより、その家族の持っている想いで動いてしまう。実際、規定額の十分の一から百分の一位しいかもらっていないケースばかりだ。しかも特殊な案件が多く、当然、仕事の難度は高いものとなる。
「お金持ちになりたい(富)」・「社会的ステータスを向上したい(貴)」。そういった案件は全て断っている。人の欲望を助長するために、ぼくの風水は使われたくない。かけがえのない気持ちを持って臨みたいから。
自分一人が一つ一つ手がけるには時間もかかり、人間一人の一生分の時間など制限されている。だからこそ、係わった物件とそこに住む家族がいる限り、自分は連絡を取り続け、仕事を続けるだろう。この制限された命を使って。
だから、仕事は選ぶ。想いの強さがぼくを駆り立てる。それが、ぼくが受け止めることでもらえる自然界からの代価だと認めているから。
規定額なんていうものは、風水と建築を等しく見るぼくの考えに基づき、建築の値段と併せ対象化させた値段に過ぎない。
それは、人間の煩悩と欲望まみれの風水の案件を受けたくないぼくの口実なのだ。(あくまでも個人的な意見だぞ!) 先の事例にあげたように、人々の欲望を助長させた先にぼくのホームはないから。そんなもののために、ぼくのフォームは示せない。
たまたま想いが合致して、案件を引き受け、鑑定先の家に行ったとき、その時、ふと感じる瞬間がある。
そこに、ぼくのホームがあるような気がする。ぼくのフォームと共に。
だって、ぼくは自分の手がけた家とそこで暮らす家族たちの顧問なんだ。
そこに家族がいて、ぼくを必要としている。
だから、そこはぼくにとってもホームなんだ。
風水が幸せを追求する全ての手段だとは思わない。でも、風水を通じて出会ったファミリーたちに対して、ぼくは自分の持てる力を振り絞って挑む。それが、自分でつくるホームだと思っている。幸せになってもらいたいから。
風水が、ただの技術へと、そして、単なる手段へと成り下がってはならない。風水の鑑定現場で問われるのは、マニュアルどおりの技術ではない。それは医学と同じ領域なのだ。だから、手術の方法が実に様々であり、医者が外科技術を学び続けるように、風水技術にもミスがあってはならない。
本来の三元派が陰宅にしか使用しなかった「玄空大卦」を擇日や陽宅にと理論をカスタマイズしたのは、曾子南の弟子である殷儒童に負うものが大きい。
彼らのロジックだと、『平砂玉尺經』が出典根拠になるが、これは元代の劉秉忠(1216-1274)著とも、述ともされ、この著の中で「楊公曰」と楊筠松に帰せられる記述が多いが、そこには先ほどから述べているように学術としては成り立たない中華伝統文化の悪習があることは否めない。
江湖派とうたわれ、その内部情報を外部との交流によって漏らさなかった曾子南の派閥ではあるが、近年では、大分多くの情報が開示され、その内容も明るみに出た。「玄空大卦」に興味がある人は是非読んでみるとよいだろう。(中国語だけど) 一冊2,000円ほどで買える。
『三元地理講義秘訣詳解』 殷儒童編著
『堪輿玄空大卦奧義集解 上冊』 殷儒童著
『堪輿玄空大卦奧義集解 下冊』 殷儒童著
『三元地理圖文淺解』 曾子南 原著 張書圖 編著
近現代の風水史を振り返る上では、貴重な文献と言えるのではないだろうか。
しかし、このような派閥制の強い流派の技術は、人を偏狭に偏屈に、「それ以外はダメ」と言わんばかりに、人々の学習し続ける姿勢を崩し、ただの妄信と化してしまうシステムと言わざるを得ない。
広く深く学び、多くの人々と一緒に経験則を集め、比較研究するオープンな態度が求められている時代だと思う。そのためには、信頼に足る多くの仲間たちと共に、学習を続け実際の経験を赤裸々に語り、情報交換をし、一つ一つの技術に確証を求めてゆく自然化科学者の態度が必要だと私は考えている。(個人的な意見だぞ!)
もちろん、その過程でおかしな技術は淘汰されるのではないだろうか。
迷信や妄信は宗教に委ねる。風水はいかなるときも、自然科学であってほしいと切に願う。
そんなみんなで集め寄った情報を比較研究するホームがほしい!
そのためには、フォーム(技術)は、オレが通信講座を通じて公開しようと思う。
でも、それだけでは、自分が納得するフォーム(形)とは言えないだろう。
それだけで、納得して生きて行くことなど出来ないから。
フォームとしての事跡も示すために日夜努力したい。
ちなみに、今後はブログよりもPHP-Nuke で情報交換できる場を用意しようと思う。そのホームでは、多くの仲間が集い様々な技術としての風水のフォーム(カタチ)にメスが入れられ、比較研究されるだろう。
一人で実地のデータを集めるより、有力な仲間たちと共に集めるほうが時間を短縮できる。そうやって風水は経験則のデータと共に練り上げられてゆくべきだ。
「風水は人の命に係わる」ものだから。だからこそ、慎重に!
それが、本当のフォームであり、みんなの信頼に足るホームとなる。
そのためには、一人一人が実践を持って学習しなければならない。それが学習派と呼ばれる人々の態度なのだ。
オレも、まだまだ、この先も研究をし続け、もっと、もっと実践へと突っ込んでくぞ!!!
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*最近、ぼくのブログの記事あちらこちらに貼り付けられていますが、ぼくは関係ありません。誰にも山道帰一という個人が思うことを止める権利はないと思っております。それだけに、これは個人的に思ふことを書いたブログだと了承願えれば幸いであります。もし、不適切な表現があったら、コメントで指摘してくださいね。
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