編集のHさんの言葉を思い出す。(←ちょっと遠くを見つめながら遥か彼方を思うような感じで)
編集H氏:「また、完全定本【実践】地理風水大全みたいに出版計画を無視して、勝手に分厚くなるのはやめてくださいね。出版計画に従った文字数でちゃんとおさめてくださいね。」
山道:「フッ。あんなに分厚くはなら無いですよ。あのボリュームは若気の至りだったんですよ。きっと。」
しかしこの時、誰もが予期さえもしていなかった。出来上がる四柱推命大全の翻訳原稿が地理風水大全と全く同じ23万文字近く膨れ上がるということを。
いざ翻訳に取り掛かってみると、ページ数は細胞分裂によって増殖し続け、細胞数ならぬページは数は増え続けたのである。
そして、『完全定本 四柱推命大全』の圧倒的なボリュームは正に圧巻で、巻末には万年暦を置くスペースなぞ一切なかったと言う。
編集H氏:「あとがきを含めて、おおよそのページ数がすでに480頁ほどになっています・・・」
時間とページ数の約束を決して守らない男・山道帰一36歳にして苦悩する。
しかも、今回は締め切りを四ヶ月も過ぎ、後半ものすごい勢いで巻き返したものの、ただの翻訳では、この本はもったいないという思いから、訳注をするに連れてページ数は跳ね上がり続けた。苦悩だった。読者のためにか補足説明を入れれば入れるほど、約束のページ数は破られていくのだった。
この本が一貫して持っているテーマは、術として構築されるまでの原理の発生を古典世界と共に見つめ、その成り立ちを追っていくところに、醍醐味がある。だから、陰陽・五行・干支・六十甲子から、納音、河図、それぞれの沖剋刑害、會合、生剋定名(六神)、六親、用神、格局、喜忌にいたるまで、全部に原理となった原点からの典故及び使用法に到るまでの実例、全てにおいて子平八字(四柱推命)の成り立ちを現象学しているといっても過言ではない。
当然、漢文を載せる。それを訳す、更に解説すると、雪だるま式に文字数は増え続けたのだ。そこまで見越して、プロの翻訳家なのだろうが、よくよく考えたら、ロー先生の翻訳は全て英語からであり、中国語から翻訳書として出版するのは、何と「私にとって初めてのお仕事でした」ということなのでした。
更に、単なる翻訳家に徹するわけにも行かず、如何にしたら読者に伝えられるだろうか、どうやったらもっとこの素晴らしい本を理解してもらえるだろうか。と言うことに終始せざるを得なく気づけば訳註というスタイルになっていたわけであります。出版物として出すからには、敷居を上げずに初学者にもガンガン攻めてきて欲しい本にしたかったのだ。
実に、ロー先生の講座の主催者として多くの講座に立会い、多くの生徒を見て来た。素晴らしい授業展開で、多くの人が理解したつもりになって帰っていくのも目の当たりにしているし、おかしな輩は、そのまま研鑽もせずに翌日からはプロを名乗ったりする滑稽にも沢山出くわしてきた。そんな奇特なシーンを見る度に、「四柱推命を甘く考えるということは、人の命を軽んじている」という憤慨にも似たものを感じたりもした。それは単なる詐欺師に過ぎないのだから。
実際に、如何に理解しやすい授業であろうと、研鑽なくしては進歩はないし、実践家として誉れ高いロー先生だが、自らが時間をかけて苦労し、そうやって勝ち得た高度な認識まで、講義で完全に伝えるのは無理である。それを伝えようと思えば、それを伝えるに値する場数を踏んできた者に対して出なければ、講義にすらなら無いだろう。
残念ながら、そのような高級班はまだ開設されていないし、その水準は各種個別の試験によって審査されているのが現状である。経験が積み重なり、認識となり判断できるようになるまでの時間をかけた思考プロセスの中にあって、時間はいやでもかかる。
その一連の四柱推命の進歩までの過程は、「思考の建築」と呼べるものであるかもしれない。土台を作り、基礎工事を終えて構造材、横材は配されていく。それらの材料をを如何に使うかということに対する熟知、そして培われた高度な技術を用いてこそ、建造物は出来上がるのである。
それを「理論」として発表、講義しても、その家の建てかたに精通する設計技術から建築知識、及び建築施工に対する法令の理解までがなければ、その建造物の正体は永遠にわからない。
四柱推命においては、「命譜」などの実例を通じて表現するか、もしくは高度な言語として哲学としてコミュニケーションを試みる以外にないのは言うまでもないだろう。しかし、残念ながら多くの実践家が哲学者であるわけではないので、それをえてして表現できないものである。初学者に論を伝えて、実例も見せ解説するが、そこから先、どう使いこなしていけるかというのは、いたって個々の研鑽の仕方にかかってくるのではないだろうか。
それは本書においても全く同じであると言わざるを得ない。ロー先生の講義のように、素晴らしい講義を受けたから、もしくは今回出版される『完全定本 四柱推命大全』ような素晴らしい本を読んだから、というだけでは、全く実践レベルでは使い物になら無いのが四柱推命という学問なのである。このあたりを読者は決して甘く考えてはなら無い。それが先ほど述べた論を組み立てて応用できるための「思考の建築」が出来上がっていないのならば、実際に無理なのだ。
もちろん、格局の取り方から用神、喜忌を間違えた理論からスタートしていたのでは、「命譜」の解釈も単なる「冥府」の土産になってしまうだろう。
基礎理論の派生から成り立ち、その原理の追求はあくまでも大事である。四柱推命という建造物の図面の見方ができるようにならなければなら無い。
と、思うぞ。手厳しく述べる。命理学とは、その字義によるように人の「命」に係わるものなので、間違って鑑定をするということは間違った暗示を人々に施す社会悪でしかないのだから。
邪悪なる者になら無いためには、まず正し論を抑えて、いきなり金を取る意味での「プロ」になることからはじめるのではなく、地道に自己研鑽としての学習を経て経験を積むことである。正しい基礎理論からはじめなければなら無い。
さてさて、本書ではそういった意味から一つ一つの理論構築に到るまでの流れから多数の古典が引用されている。これが翻訳で一番大変な作業でしたが、鍾進添老師の御指導により、品質の高い素晴らしいものに仕上がったと思っています。この中で古典からの以下のものを原典から訳出しました。
第八章 十干と五行の四時における宜忌(ぎき)
十干の宜忌
『滴天髓徴義』劉伯温原著 任鐵樵編註 徐樂吾増註
五行ごとの四時における宜忌
『窮通寶鑑』余春台著
五行生剋と制化の宜忌
徐大升の論
この第八章に関しては初学者は読み飛ばして、全部読み終わって、読むと言うので宜しいかと思います。
さて、実に多くの現代人にとって古典など過去の遺物であり、研究するに値しないと思う者多いだろう。古典解釈を現代の知識から考えることももちろん大切だろう。しかし、しかし、温故知新を侮ることは出来ない。
例えば、本書を通じて私が驚いたことの一つは、四柱推命は太陽を主体とする「天体」の運行に基づくものではなく、『黄帝内経』五運六気による中医学と母胎を共にする「人体」に基づくものであったということです。そのため、六十甲子を根幹とした循環する時間概念が四柱推命のすべてのルーツであり、出生地ごとの平均太陽と、実際の太陽との移動の差である時差から均時差までを取る必要がないということなのでした。
時差を考慮する目的が、「より正確な出生時における太陽の位置」とのかかわりを求めようとするための試みならば、当然、均時差も考慮されなければならないだろう。
97回(閏日)÷40年0=0.2425であるから、1暦年は平均365.2425日(365日5時間49分12秒丁度)となり、これによって、暦と季節とのずれは約3320年で1日と、少ないものになる。ということは、4年経てば、(5時間49分12秒)×4=23時間16分48秒と、24時間に近く補正され、約3320年で1日となるようにされているということである
4年近く経過し、閏月の2月29日付近では、約1日とでも言うべき時間に近い季節と月相(太陽と月の黄経差)に対する暦のズレが出ているのである。言い換えれば、閏日の置かれた2月29日から、2年以上が経過すれば、既に半日以上の時間のズレが生まれており、それは標準時を起点とする経度の違いによる時差や、季節における太陽の近時差などよりも、はるかに大きい最大のズレと考えることができるのである。
言い換えれば、閏日から2年以上の経過によって、日干支が既に一つズレていてもおかしくないということになる。例えば、1976年2月28日に生まれの人は出生時刻が午刻以降ならば、次の日干支2月29日の干支となってしまう。と、考えているのに同じなのである。
この様にそもそも厳密に時差を考慮することとは、閏を四年に一度、「一日増やしましたよ。閏入ってる。」という方式が精密に時差を考慮していることになるのだろうか。なるはずがない。厳密に考慮すると、上記した様に、そら恐ろしいズレが出ているわけです。
つまり四柱推命のもつ時間概念を強引に真太陽時にしろ、平均太陽時に寄り添わせるのでは似て非なるものとなってしまうのだ。しかし、天体ではなく人体が体感する現象として、日が暮れて朝が来ることを一日とカウントし定義する六十甲子における一日一つの干支が進み、六十甲子が循環する時間だけを追いかけているのならば、4年に一度の閏を考慮する必要もなくなる。当然、時差、均時差らを考慮する必要がなくなる。 一つ、二つと、時差を考慮する数え歌は「牛角尖」となってしまうのである。
根幹は「六十甲子の循環による時間概念」である。それは六十甲子の一つを一日と数えるのが基本であり、太陽暦でもなく、太陰暦でもなく、太陽太陰暦でもなく、あくまで「六十甲子の循環による時間概念」という特殊な時間概念であり、閏日が入っても太陽暦とは関係なく、「ただ単に六十甲子が一日(一干支)進んで行くだけなのでズレることが無い。四柱推命の時間概念は全く「天体の太陽の位置について考慮されたものではない」のである。
これについては、本書の大事な論の一つなので、「第十二章 時柱を排する方法」に詳細に述べていますので、ご一読あれ。
鍾進添老師は言う
鍾進添老師:「批命而鑽此牛角尖、即不必矣。(命を判断するのに価値がない問題にこだわっている)」
鑽牛角尖(さんぎゅうかくせん): [成語] 解決できないことで思い悩む。「牛角尖」で、解決できない問題という意味。
実際この「牛角」は今回のテーマの一つでもあった。私が翻訳するのに際して、自分の既存の知識にこだわり、翻訳が止まってしまうと老師は易しく教え諭してくださった。
鍾進添老師:「山道。牛の角が尖っておるぞ(牛角尖)。」
山道:「ハッ!先生、今僕ノ牛ノ角ガ尖ッテイマシタカ!ヽ( ̄Д ̄*)」
恐るべし!牛の角。(ノ゚ロ゚)ノ
次回パート3では台湾での学習の経過などを発表いたしますね。
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