物議を醸した「送友人」の記事に関係して、色々な方から、様々な反応が飛び出しました。
掛川師兄の一番弟子の南華さんから、ありがたいご指摘をいただきました。
イスカンダルさんは、狙い済ましてたジョークとして、文面を自分と勘違いしたと、お電話をくださり、いつものようにこれをネタで大爆笑。
また、他にも文面を勘違いした弟子もいました。
朋友のウィリアムも色々と心配してくださりました。
熱い漢(オトコ)の友情メールをアンディとマギーから、頂きました。
阿藤さんは、「そんなこと良くあるじゃん」的な感覚で聞き流しくださいました。
どれも、嬉しかったです。
どうも、このシリーズをこのまま幕を閉じる前に、「もう一捻りしろ!」と、自分の運命に焚きつけられている気がしたので、レッドクリフしてみたのですが、もっと、この現代では、説明が必要なようなのでがんばります!コメントからのシングルカットです。
多くの方が、ご存知だとは思いますが、伝統社会における内弟子制度は、非常に閉鎖的で、かつ審査は、針の穴を通すほど厳しい徒弟制度です。
この更迭された知人もただの知人でいれば、良かったのかもしれませんが人体開発に携わる数々の質問に対しては、外部のものに応えてはいけないのが、山の世界の鉄則です。
しかし、そういった質問ばかりされてしまい、おまけに敬意もなければ誠意もない、一番欠けているのが、「智能」という傲慢な自分の保身が一番大事な知人とは、当然、困ったことがあった時に、助け合える友人ではないので、いい加減イヤになって投げ出してしまいました。
20世紀最高峰の神秘家として名高い、G.I.グルジェフ(1877-1949)は、
「あなたが将来行うであろう善行と悪行とを、現在行っているそれと区別できるようになった時に初めて、あなたは分別ある存在となるであろう。」
と言います。分別ある存在とは何か、短い時間軸の中に判りやすいたとえを盛り込んで、G.I.グルジェフは簡潔に説明します。流石は、歴戦のつわもの、経験値がダニエルとは違います。
HPとMPなら、負けんがなー!ヽ(`△´)/
あっ、グルジェフはもうHP残ってないか。(´Д⊂グスン
G.I.グルジェフは、人間の分別を非常に分かりやすく説明しています。この内容は、100点です。
「人間の本性とは次のようなものである。
ある人に初めて贈り物をした時には、彼/彼女はひれ伏す。
二度目にはあなたの手にキスをする。
三度目はおべっかを使う。
四度目には軽く一度うなずく。
五度目には慣れっこになってしまう。
六度目には口汚くののしる。
そして七度目には、十分もらっていないからといってあなたを訴える」
お医者さまやセレブに挨拶もされなかったクズといって、最後は訴えられたダニエルですが、めげませんぞ!
あっ、ちなみに、知人と友人は世間では同じでも、ぼくの中では違いますので、タイトルの「送友人」は、大袈裟でしたね。
この更迭された人も、今後は身にあわぬ大袈裟を纏って、自分を誇張して生きて行くのでしょうけれども、結局、この先に何年かけて教育しても、この人のこういった業(性質)は、他人が消すものではないので、今の段階で見切りをつけることが大事でした。
結局、人間の成長は年齢ではないのですね。ただ単に年だけとり、体だけが成長をし、精神が成長することなく、妄想だけで膨らんで、おっ死ぬような人間にはなりたくないものです。
トイレの電球は、40Wで十分なのに、馬力を出しすぎて、はめをはずしてしまった、100Wの如く、努力していくら照らせど、感謝一つされることのないドアの外の醜い世界を垣間見た感じです。
これが以前、夢で張明澄先生が現れて、頭をゴリゴリされて怒られてしまった夢の意味だったと、今では自分に対する良い戒めです。教えても不毛な人間、教えたら社会に対して害悪を撒き散らすだけの人間には、何も教えるなという意味ですね。
このような実体験を経て、生き方を改め様と思います。南華さんには、ありがたいご指摘を頂き、ありがとうございました。今後は、ぼくのミスによって、皆様に迷惑をかけるわけには、死んでも行きませんので、気合と覚悟を自分に入れなおしました。トイレの100Wという恥ずかしいあだ名を自分に戒めとして刻みまする。
もう、これからは、暗闇のトイレでお尻を拭こうとしている自分の尻拭いもできない人たちに手を差し伸べるのは、やめようと思います。
手にウンコがついちゃうから。( ゜ 3゜)
しかも、トイレに行ってもても手を洗えないのは、もう勘弁してくださいといった感じであります。
また、一つ自分について勉強になりました。
G.I.グルジェフは、言います。
「受動的であるかぎり、これから先の生存においても我々は、ありとあらゆる偶発的な出来事が引き起こす気まぐれに奴隷のように服従するほかなく、その結果、自然が<退縮的および進展的に構築するもの>に仕えるような道具になってしまうのだ」
つまり、この知人のように偶発的な出来事が引き起こす気まぐれを受動的に「運命の出会い」と言って受け入れ続けるだけの人間は、奴隷のように服従するだけの人間になってしまうのですね。
ぼくは、生きた朋友(ポンヨウ)人間のが大好きです。ぼくの周りには、随分と生きた輝きを放つ夢を持った人間たちが集まりました。みんな冗談が大好きで、仕事をし、生き生きと輝いています。仕事もせずに不労所得で暮らし、なんでも受動的な奴隷とは違います。
ぼくには、奴隷の友達はいません。これからも生きていて輝いている朋友(ポンヨウ)たちと共に見つめる同じ方向性と夢が楽しくて、毎日が楽しくて楽しくて笑いが止まらない。そして、そんな素晴らしい人生を生きている朋友(ポンヨウ)たちと仕事も一緒にします。
ぼくは、決してセレブな方々や権威者に囲まれたりしていないけれど、そんな人たちに身をゆだね、おもねる奴隷にはなれないし、受動的になり続けることで、道具にはなれない。
そう、ぼくたちは能動的に明日を見つめ、そして、パンのために生きるのではなく、生きるために、しょうがないからパンを食べるのであって、物欲に満たされて、受動的に終わって逝く奴隷ではないのだ!
そう、オレは世間で、受動的につくられた権威社会や富裕階層の中にいなくても良い!
オレはトイレのように、この薄汚れた世界で全力で輝く100Wの電球!
お尻まで、懲らしめてやるつもりはないがなー!ヽ(`△´)/
ぼくは変人だからと言って、お尻とそんな親しいお知り合いではないぞ。(。◕ฺˇε ˇ◕ฺ。)
悪党どもは、自分の強欲のために、この地球から8億の人々を餓死させようとしているセレブと呼ばれるお方たちだ。自分が大事にしているもの失ってまで、人を助けようとせず、自分の欲望のために、人の命をもてあそぶ。そして、そいつらは口だけで立派なことを言う本当のクズ(支配者層)たちだ。
50周年を迎える世界人権宣言では「すべて人は、衣食住、医療及び必要な社会的施設等により、自己及び家族の健康及び福祉に十分な生活水準を保持する権利(中略)を有する」と謳われている。しかしながら多くの人々にとって、これらの権利はますます遠いものとなっている。
食べる権利を例に取れば、食べ物が不足しているわけではない。食料品がこれほど豊富にあったことはなかったし、地球上の60億すべての人が1日最低2700カロリーを摂取できるだけの量はあるはずだ。しかし、生産すればよいというものではない。なおかつ、食べ物を必要とする人々がそれを買い、口にできるようになっていなければならない。現実はまったく違う。毎年3000万人が餓死し、8億人が慢性的な栄養失調に苦しんでいる。
どうしようもない、ということなど決してない。天候による不作は予測できることも多い。「飢餓反対行動」のような人道援助組織が介入することができれば、発生しかけた飢餓は数週間でくい止められる。
では、多くの住民が餓死するのは何故なのだろうか? それは飢餓が政治的武器と化しているからである。今や飢餓はただでは発生しない。冷戦の終焉によって金づるを失った支配者層や諸機関が、あろうことか、飢餓を戦略として活用しているのだ。シルヴィー・ブリュネルは次のように述べている。「飢えさせる対象が、征服すべき敵方の住民から自国民へと代わった。紛争は恵みの雨、使おうと思えばいくらでも使える。メディアの映像、そして映像が必然的に引き起こす国際的な同情の嵐。金と食料が降り注ぎ、政治演説の場も提供される」
こうしてみると、天候によって大飢饉が引き起こされるというよりも、
今や人間が人間を飢えさせているのである。
ル・モンド・ディプロマティーク編集総長 訳・中根雄也より引用
偽善者たちを金づるとして利用するための戦略として、人が虫けらのように殺される。自分の豊かな生活を何一つ犠牲にしようとせずに、この経済、政治と言うルール(支配)の元に、人々を奴隷化し、貧しい人々、病める人々を搾取し続けて、殺そうとしている。そんな、悪党どもをオレは死んでも許さない!
そいつらは、社会の中で、偽善に満ちた顔で正義を語るが、自分のものを何一つ失うことなく、保身にしがみつき、多くの人々を犠牲にしてでも、貪欲な豊かさと自分のためには他人を犠牲にしてでもかまわない自分のための幸福を追求する。
そんな奴らに何か教えることがあるのならば、どうやって地獄に行くかという方法だけだろう。ヽ(`△´)/
今は、社会の中での評価は、奴隷のごときもので、今回のケースのように、鼻持ちならない連中にクズのように扱われようとも、オレは絶対に仲間たちと共に、この腐った社会を変える。今必要なのは、「富の再分化」である。
着々と集まる108の星たち、朋友たちの存在こそが、未だにこの苦しみに満たされながらも、この世からおさらばしていない、ぼくの全てだ。
かつて、台湾で一緒に修練をしていた同門の友人は、ある晩、ぼくの家に来て、一緒にお茶を愉しんだ。当時から、お茶にこだわるぼくは、自分で産地の茶畑に直接買いに行くほどのこだわりで、同門の仲間達からは、「あなたの家でお茶を飲むと、お茶屋さんでお茶を買えない」と苦情を言われるほど、茶通として知られていた。
また、同門の友人たちは、「あなたは、茶通王だ。そして、お茶についてよく研究している。(你是茶通王。也是對茶葉很有研究!)」と、誉めてくれたものだった。それが、嬉しくて産地の茶畑までお茶を買いに行くのが楽しみになっていたのかもしれない。これが、ぼくが広尾で経営する茶通の語源の一つでもある。
その日、友人は一緒にお茶を愉しんだ後、帰りがけにふと思い出したように後ろを振り返って、笑顔で一言だけ言ったんだ。
「茶葉農場快樂嗎?我想畢業這個實驗農場。」
茶畑は楽しいですか?私は、もうこの実験農場を卒業しようと思います。
もっと早く、彼の決意に気づいてれば、説得できたかもしれない。いや、説得する必要があったのかは、定かでない。彼は、同門の中でも、群を抜いて、呼吸法に長けていた。とりわけ、無呼吸状態である呼吸を停止させる胎息において、彼の右に出るものはなかった。
次の日、顔を合わせることがなかった友人だが、数日後に、病院の霊安室で再開した。安らかな死に顔だった。彼は、私の家を去った後、自分の部屋にこもり、身の回りのものを整理し、二度と帰ってこない旅に出た。死亡診断書には、心不全とだけ書かれていた。肉体を捨て去り、仙崖境を越えて行ってしまった。
先に上がってしまい、この世に何も未練さえ残さなかったほど、道を究め尽くした友人でも、最後に会いたかった朋友がいた。飲みたかったお茶があった。ぼくが農場を駆け回り、見つけてきたお茶たちは、今は広尾の茶通に保存されている。友人が帰って来た時に、また一緒に飲めるように。
自分の意志で、この世から去って行った友がいたことを忘れない。ぼくは、友人のとった行動を否定しない。それどころか、尊敬している。そう、ぼくは、友人を否定しないのだ。互いに尊敬できるからこそ友人だった。ぼくにとって、友とはそういう存在だ。互いに貧しかったが、最高のお茶を最高の友と共に、愉しんでいた日々が懐かしい。名も知られず、社会的な地位もなく、誰にも挨拶されることも敬われることもなく、トイレから出て行くように、この世を去ったが、ぼくの自慢の最高の仙友だった。今でも。
そして、未だにこの実験農場に残り、奮闘しているぼくを見て微笑んでいると信じている。
苦しいときほど、最後の笑顔と、彼がぼくに問うた言葉を思い出す。
「農場快樂嗎?(農場は楽しいですか?)」
そして、もうとっくに気づいている。この実験農場が地獄だと。ただ、死ぬまで「楽しくない」と認めたくないだけ。そう、変えなくてはいけないから、この腐った実験農場を。
この実験農場を愛してやまない108人の戦友は、離脱することなく、ここで戦う。この地獄の実験農場を耕すのだ。
ぼくは今、トイレという陽の当たらない場所で静かに陽があたらないほど輝く星たちを待つ。
「今も、もがき続けているよ。胸に火を灯そう!月を見上げろよ!」
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