空海の文化
序文
「空海の文化」について私が是非、考察を進めたかった部分は、空海が日本の歴史に登場することによって、それ以降の日本の精神文化に対して大きな革新を与えたという点にあります。その革新に連なった空海伝来の密教の精神文化をここでは論じてみたいと思います。
しかし、空海によって、展開された密教の精神文化を論じるにあたっての難しさは、ひとえに真言密教の持つ、経書のみに教説が偏らないという「蜜」なる部分に対する理解の仕方であり、更に加持祈祷と言った、体験を通しての仏教といった性質上、空海の思想とは、ある種の観念による理解が必要に思われた事をここで断っておきたいと思います。
また、空海という人間を見つめるという過程を通して、空海の文化を見ていきたいとも思っており、以下にその様な視点を伴って文を書きました。
本文
空海の思想を歴史的関わりの中で見つめていく上で一番興味深く感じたのは、彼がまだ沙弥戒を受ける以前の真魚と呼ばれていた頃の彼を通した時代背景である。
この当時、儒学が学問の主流であったから、空海も母の兄であり、伊予親王の侍講に選ばれ儒学者として一流と名高い叔父の阿刀大足のもとに儒学を学びに行く。故郷の讃岐から、遷都したての長岡京に行く十五歳の空海は、きっと一番好奇心旺盛な時だったに違いない。
この平城京からの歴史的、転換期である新都で空海が見て、感じたことこそ後の空海を誕生させた。
この頃、都で騒がれた史実の中でも長岡京の怨霊騒ぎが、空海を目に見えない物の世界へと誘ったと思われる。この怨霊騒ぎの中心は、桓武天皇の弟で政変の犠牲となった早良親王の怨霊を民衆は恐れていた。
この時、民衆の恐怖を鎮護するのに、道教が一役買っており、真魚が民衆に溶け込んだ呪術を多分に目撃したと思われる。このような出来事が、『三教指帰』を書く上で、道士の個性を加味したのだろう。
そして、更に衆生救済に呪術的性格を帯びた密教に空海を魅了した要因でもあり、密教が日本に根付くして、根付いたと思わせる要素を多分に感じさせる事件であったと思われる。更に、この呪術的性格を持つ道教の宇宙観が、後に空海が山岳修業で感じた大地との一体感であると思われる。
長岡京の遷都にともなって遅れて開講した大学寮に空海が入る頃、すでに空海は十八になっており、この時儒学に打ち込んだ、三年間は、空海の最も複雑な心境を抱かせた時期であったと推測される。
ちょうどこの頃、道境の左遷後から、奈良仏教は衰退していこうとしている時期でもあった。道境が政治に絡みすぎたせいもあって、仏教の存在が朝廷から危険視されていたことから、資金面や題材的な活動の中心である朝廷との力関係がうまく保てなかった時代だとみてとれる。
一番の問題は仏の教えが歪曲されて、民衆に考えられていたとも考えられる。それにともなった怨霊騒ぎや遷都で、民衆の心の負担は大きかった。そして、活動に力(政治力)を伴わなくなった仏教に、不安感が漂っていた中、仏教界の時代を担うと期待されていたのは、空海ではなく、最澄であった。
奈良仏教の新しい方向性を模索して、なんらかの結論を出したと言う点においては、後の空海と全く一緒であった。十八の真魚は大学寮の規定の年齢制限を過ぎていたことも、どことなく関係していたかも知れないが、根本的に幼くして、二人の兄を流行の悪疫でなくしていた真魚には、仏教で言う諸行無情、人の生き死は人を内包した広大な自然観の中での常にやまない変化に過ぎないという広大な仏教観にすでに深く共感していたと思われる。
真魚は、一説によると勤操という一山岳仏道修業者のもとで、この頃沙弥戒を受けたとされる。得度僧となるのはもっと後のことであった。やはり、遷都といった時代の広大な転換期であった困難な時代だったからこそ、空海のような優れた宗教家が誕生したと考えられる。
空海が真言密教という精神文化を日本に定着させる以前から、一部の山岳修業者の間に密教独自の瞑想法である阿字観や虚空蔵求聞持法等の修業法が、遣唐使等を通じて流布していたと言われる。
もちろん、密教の根本経典といわれる『大日経』(大日盧遮那成仏神変加持経)等に至っては、すでに日本の久米寺に保管されており、空海も唐に行く以前に密教の基礎的な学習を終えていたと考えられる。しかし、密教の大事な部分とは言葉にならない部分である修法や儀式を通して学ぶという部分である。
後に最澄が空海に貸してもらおうと思った密教経典の秘典といわれる『理趣釈経』を空海が最澄に断った理由でもある。空海が最澄の要望を断った『補闕抄』巻十「叡山の澄法師、理趣釈経を求むるに答える書」の中に次のような表現があったとも解せる。
「奥義は心から心に伝えるものにございまして、密教も例外ではなく文章上で理解するのを重んじませぬ。…もともと文章は瓦礫に過ぎないところがあります。文章だけで判ろうとしては奥底に込められた真実を見失います。…」(意釈)。
つまり、空海が言うように唐に行く以前に密教の経典学習は済ませていたが、修法や儀式といった段取りを正しい手順で体得していなかったとのかも知れない。
密教の修法や儀式で一番大事に思われるのが、灌頂という儀式だと思われる。この灌頂とは、古代インドの王権交代の時に行なわれていた権力交代の儀式であった。
後に、密教やヨーガ等の儀式として、取り入れられたと考えられ、シャクティ・パッドという名が示すように、頭頂からの力や情報の伝達とされる。
近年では日本において誤解されて伝えられ、社会に諸悪をもたらす単語の一つと勘違いされているのが痛い。
そして、空海は唐で最も由緒正しい密教の血脈を持つ恵果阿闍梨から、灌頂を受けている。もともと、恵果阿闍梨は密教東国伝来を考えていたが、なにぶん年をとっていたこともあり、唐で天才的な留学僧と騒がれていた空海にインド伝来の自身の夢を灌頂という形を通して伝えたのだろう。
もちろん、灌頂を受けるにあたっての密教に対する深い理解と若い情熱が空海に次の様な奇跡をもたらした。
それは、空海が恵果阿闍梨の付法の弟子になる灌頂を受けるにあたって、儀式の終わりまで恵果阿闍梨を含めた全ての弟子達に見られ、試されていたが、空海は奇跡的に、胎蔵界曼陀羅と金剛界曼陀羅の上に目隠しした状態から、毘盧遮那仏に花弁を当て、彼に不満を持った輩を納得させるだけの力量であるところの仏縁を見せつけた(これは真実と思われる)。
しかし、この頃すでに還学生として唐に渡った最澄が、新しい都である平安京で、密教を布教していたのである。しかし、時代は日本に戻っても空海に味方した。
政治権力としての力が空海に歴史を開いたと言わねばならないのかも知れない。遣唐使船団に空海と同乗しており、唐でも一緒に行動する機会が多かった橘逸勢や嵯峨天皇との親交から彼は歴史に宗教家としての顔と政治家としての顔を見せるようになる。
また、この三人は三筆と呼ばれる名筆の達人であり、当時の文化を代表する文化人であり、嵯峨天皇にいたっては日本で始めて茶を栽培させたともいわれる。
そのような時代の先端を荷う文化人だからこそ、お互いの持っている共通の文化的価値を共有したり、お互いの技術を素直に評価したりすることから、親交は深くなるのは当然のようにも思われる。
さらに、橘逸勢の親戚が、嵯峨天皇の皇后でもあったことら、この三人の結びつきの深さを容易に想定できる。全ての条件を整えた空海にしてみれば、今まで彼の後押しをしてきた奈良仏教界が彼から距離をおいても、なんら問題がなかったものとおもわれる。もちろん、闕期の罪も問われはしなかった。
空海の密教が他の仏教界から疎まれたのは上記のような政治的権力を空海が手中に納めているという実利的な問題のほかにも、煩悩を肯定する教学とか、即身成仏という教義に非難が集中した。
もし、空海の表現を借りるならば、顕教が煩悩を滅するのに夢中になること事態が一つの迷妄であり、煩悩の活力を自己で支配して、自分中心で活動する煩悩の力をより純粋な他人や社会の生命力に変えようとした。私には、それが密教である様に思われる。
つまり、より実利のともなった社会を創り、衆生救済しようとする広大な宇宙観という生命による社会の個である存在の人間を仏と結びつける事が大乗の中でも秘密の教えといわれる密教の目的なのではないだろうか。これは、広大な曼陀羅に喩えている。(ある意味の上で、宗教と言うよりは政治に近いものを感じる。)
そして、一人一人の煩悩の性質である自己中心性を取り除いた上での生命力の発揮を通して、社会と自分との関係をより強い絆で結ぶことが即身成仏であると思う。空海の説く即身成仏は、今に対する生命の尊さを一人一人が再確認しようという広大な生命元に対する回帰発想であり、生命力への体験を通した仏教としての密教である。
また、私は本質的な衆生救済という大乗のテーマの上では、空海の思想も「顕密一如」であったと考える。
私は、空海の偉大な事績とは、上記の様に社会とのより強い結びつきであるところの絆として、仏教精神を社会に定着させたことにあると考える。そして、密教という精神文化を一代で日本に根付かせたという点は、もはや奇跡的であったと言えるだろう。
<エッセー集>
エピローグ:「荷物と心の整理」
「空海の文化」
「中国における思想と仏教」
「後期密教における力の顕現」
「神智学協会とインドにおけるユートピア」
「そして、世界は作られている」
「自然への道」
*これらのエッセーは12年前に書かれたものです。まったく加筆、訂正していません。
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