五術の一つ「山」術の文章を書いていると、修行時代を思い出す。弟子は、ひたすら言葉を聞き漏らさぬよう、次のステップにいけるように励むばかりだった。肉体的にも精神的にも自分が社会の中で作り上げた価値観とも呼べる固定観念を解体して行くというハードな世界だった。
人によっては、それを軍隊のごときものとでも想像するかもしれないが、違いは、徴兵制ではなく、自らの自由意思で、その世界の門を敲いているということだ。
風水に限らず、仙道を徹底して学ぶ過程では、風水とは比べ物にならないくらい、与えられる課題は、ハードだった。
若かりし日の高藤聡一郎氏なども、東派伝人としての張明澄先生の門下生であったが、一ヶ月くらいで、破門されてしまったほどだ。
また、その実態は、実践における己の心身に体験、認識させ、功を重ねてゆく。また、功とは努力をも意味し、教えを授かる上でも、自分の体験としての認識がなければ、先に進めないため、同じことを三度教えてくれない、三度目がない厳しい世界でした。
北派の呼吸法の実践テストは、一度で突破したが、東派の「卦気調息訣」と呼ばれる「重秘(秘伝)」は、一度姿勢がズレて、呼吸が、少しづつズレて行き落第した。通常の打坐と呼吸法をするときの姿勢は、使用する筋肉などの部位や身体に対する振動などが異なり、長時間の持久力と入静時に無意識に姿勢が保てるようにインナーマッスルを鍛えなくてはいけないのだが、鍛え方が足りなかったのだ。二度目の試験のときは、前もって「次はない」と言われ、プレッシャーをかけられたが、突破した。プレッシャーこそ、マイ・プレシャス(笑)。
ちなみに、この東派「卦気調息訣」は漢文で書かれた原稿用紙二枚くらいの七言の漢詩である。いきなり原稿をいただき、先生に「日本語訳して、読んでみろ!」と、唐突にいわれ。漢詩に自信がないわけではなかったので、つっかえずに流暢に日本語訳し詠んだ。次に、先生に「内容を解釈してみろ!」と言われた。内容は、綺麗な情景詩だったので、景色の解説や受けたイメージを表現したが、先生は突然笑い出した。
というのも、「それでは永遠にこの歌訣を理解できない。」と言われ、読み下しから始めて、その歌訣の訳を授かり、理解するうちに、その詩を全く読めていなかったのに加え、自分の解釈がまるで違っているので、恥ずかしくなった。
そもそも、それは易を使った暗号なのだ。そこには、呼吸のリズムやテンポから、タイミング、意識に過ぎる内容や何故この呼吸法が必要かという次のステップにいたるまで、ありとあらゆることが読み解かれ。原稿用紙二枚の漢文が、解釈を入れるとその十倍である原稿用紙二十枚以上にまで解凍された。
つまり、いくらその秘伝詩が公開されようと、誰も、「卦気調息法」を実践することは出来ないだろう。いくら、秘伝の詩訣を持っていても、まず解釈が絶対にできない。圧倒的な言葉と内容を圧縮して、作りこまれた七言の漢詩なのだから。世界最古の象形文字を未だに使う、漢文の世界では、言葉のものすごい圧縮が可能なのだ。そして、解釈ができたとしても、それを身体に伝えて、体験しなければ理解できない。
結局のところ、伝えてくれる先生がいなければ初めから話にならないのだ。伝えてもらえるかどうかは、弟子の力量である「定力」次第とされる。一生努力したにもかかわらず、今生、そういった仙道世界で秘伝と言われる奥行きと縁がなく、一生を終える修練家の方が圧倒的に多い。
張明澄先生に、ただひたすら感謝しています。今も。
「卦気調息法」の試練を身体でものにして、クリアーしたら、解釈などこの世に残るもの全てを燃やさなくてはならなかった。もちろん、身体がそれを覚えているので、資料を残す必要はない。自分の身につけた体験と認識としてだけ残してよいのが、仙道の秘伝だ。また、一人の老師が、育ててよいのは三人の弟子までというのが、東派のストイックな秘伝伝達の掟だった。そうやって、仙道の法灯は保たれて行く。
また、このように仙道の内涵(内側)の世界は、表で知られている気功とも全く異質である。五体満足といわれるように、「人に五つの本(力・精・気・神・識)がある」とするのが、「五体理論」と呼ばれ、中医学最古の古典の一つ『黄帝内経』よりはじまる考えを継承し、人の本(もと)になる五つ(力・精・気・神・識)のエネルギー全てに対する「功」と呼ばれるは積み重ねた「功夫」があります。
「功夫」とは、時間と共に変化し、鍛錬された己の能力や容量を意味し、「定力」とも呼ばれます。そして、仙道と呼ばれる顕教に対する密教の世界では、位階という段階をそれぞれの流派ごとに設けた基準として用意されています。
もちろん、顕教である儒教における四書五経や仏教の仏典、道教にみられる玄典の哲学に精通し、「力・精・気」など肉体に伴う運動であるところの分類、「命功」ではなくとも、広く認識世界である五体が一つ「識・神」を鍛える「性功」による鍛錬も、大きな功夫となり得るのです。そういった意味で、功夫においては「顕密一如(顕教も密教も一つが如し)」と言えるでしょう。
功夫は、質と量の二側面より、判断され、位階が与えられます。もちろん、流派ごとに功夫の質に重きを置くか、量に重きを置くかは全く異なると言っても過言ではないでしょう。つまり、仙道世界では、「己が功夫のみが信仰」としばし言われますが、実際にその通りで、全うな仙道流派で神を拝むものなどいません。三清をはじめとするもろもろの民間の神を拝むのは、道教といわれる宗教で、仙道とは何も関係がありません。
「性」と呼ばれる意識に近い概念(厳密には違う)と、「命」と呼ばれる肉体の双方を鍛えて行くのが、近世の仙道の主要なあり方だった。性命双修といわれる。
<仙道の五要素>
命 -力功
命 -精功-血管-|
性命 -気功-経絡-|-三寶
性 -神功-神経-|
性 -識功
仙道という肉体強化、瞑想世界の鍛錬は、先の高藤氏のケースのように、「出来なければ、次のステップすら必要ない。」という厳しいサドンデスの世界だった。
そこに自分で考える余地などないくらいに、見たこと、感じたこと、聞いたこと、味わったこと、ありとあらゆることが新鮮で、それら一つ一つが血肉に変わってゆく、そんな充実した日々だったのを思い出す。
また、仙道には、修練体系として、大きく分けて、丹鼎派と符籙派の二種類があるが、本来のスタート区分は一緒で、天丹、地丹、人丹、それぞれの気の哲学である内丹学に重きを置く。そして、弟子の成長の仕方と元来持っていた才能が、どちらに適しているかを道号を頂く前に、大抵、老師により適した素質を見極められ、修練の様態は二種類に分化して行く。
少なくとも、東派ではそうだった。このようなことは、フィールドワークを経た実践、つまり、実践家にしか分からないことで、道教徒も、学者も内部の顔は何も知らないのだ。
それは、本来人間の持っている特性と体質があり、何故、この二種類に分かれてゆくかは、DNAなどの細胞レベルの先天性が大きく関係していることだと思われる。とりわけ、「神功」の成長の仕方が、この二区分を作り出している。
ちなみに、私は修練の過程で、神功が発達し、先生に、「神功において、君くらいできるのは、たいしたものだ。世界でも、五本指に入るね。」と、褒められたことがある。結果、私は丹鼎派の修練を経て符籙派の修練へ移行した。
長くなったが、風水のブログでこのような「山」と「仙」のことを書くのは、やはり、風水もまた、気の世界であり、風と水の主語である「気」が分からなければ、決して、風水においても成果を挙げられないだろう。風水は、気に対しての良し悪しを論じる。つまり、風水において、静功(静座法)を取り入れ、人間が本来持つ気に対する感覚を取り戻すことは、非常に重要なことであると指摘したい。
そして、仙道によって、得られたものは精神の鍛錬だけでなく、仙道の持つ医学や食養生を通じて、都会で鈍らされた気に対する知覚や、防腐剤に添加物、化学調味料と、ありとあらゆる毒物で汚染された食物を摂取し続け、痛めつけられた肉体の回復などもあげられる。
最たる成果は、仙道を通じて、欲まみれの都会の中で見失い、喪失した心、自己、想像、夢、人間は何処に向かうべきなのかという人生を成り立たせる様々な要因に気づき、人生の指針を創出することが出来た。そして、私自身が幸せという行き先を見つけ、淡々と生きることができるようになったことだ。
仙道を通じて、心身ともに本当の自分を取り戻すことが出来た。そして、それらは少なくとも、私の風水観と深い係わりを持っている。
つづく
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