今日は定期健診の日。最近忙しくて、なかなか、定期的に治療を施している人たちに会えなかったのだけれど、会わないうちに病状が悪化して、病院に通ったりする人もいたので、時間をとりました。
えっ、オマエ医者じゃないだろって!?(;◔ิд◔ิ) !!!
何をおっしゃいます。上海市気功研究所からも中国政府認定の資格を発行されているし、国家上級試験である特級気功師にも合格したぼくですぜ。( ゜ 3゜)
もちろん、日本で医療行為を唄ったり、触れたりして治療したりすれば、法に抵触しますね。(๑→‿ฺ←๑)
ただ、触れなくても治療はできるので、法にも触れないのです。
もちろん、一円も貰っていませんぜ。( ゜ 3゜)
善意の治癒行為とでも言えばよいのでしょうか。
さて、本日みえたT氏親子は、ぼくの幻視に興味があり、いつも、色々な生体色、俗に言うオーラについて質問してきます。
ぼくは、世間で言われているオーラを観るとか、霊を見るとか、それらの天眼や第三の眼と呼ばれる能力を『聖書』で、よく使われる単語から「幻視」と呼んでいます。これも一つの言語のようなもので、見えるからわかるのではなく、わかるから視覚化しているのです。
家系的に有名な霊術家も輩出したことがあるT氏親子は、残念ながらそのような能力は遺伝的に伝わらなかったようですが、ぼくのすぐ側に来ると見え出すのです。
確かに見えている細部まで同じものなので、今日は色々と実験をして、ビックリしました。感染するんです「幻視」が!(;◔ิд◔ิ) !!!
ダニエル:「TV型の箱。旧型カメラのようなデザイン。」
T氏の娘さん:「あー、それ最近私がデザインして作った制作物だ。」
ダニエル:「沢山の幾何学的な模様と薄い黄色。」
T氏:「今、黄色の幾何学的なデザインの制作物を300枚つくっています。」
ダニエル:「ちぎれかけた黒く濁った紫色の人との繋がり。
この患者は、もう長くないようです。」
A氏:「やっぱり、あの人はもうだめですか・・・」
などと、リアルタイムで色々と覗き込むことができる。この能力をぼくは「幻視」と呼ぶ。
今日、驚いたのは、この「幻視」能力がある種の遺伝を持つ人たちに一時的に感染する可能性があるということだ。高名な霊術家の祖父母を持つ、T氏は普段は、「幻視」できないが、ぼくの側、それもかなり至近距離に近づくと見えて、1mほど離れると見えなくなることに気づいた。
ふ~む、もっと実験してみたかった。よく、仙道を学んでいたときに言われていたのが、「過去に仙人を輩出したことのある家柄の人間は、修練が早く進む者がいる」と、言われ続けてきたが、それと関係しているのかもしれない。
よく質問されるのが、人と対談したあとに、この「幻視」について知っている人から、「あの人どうでした。何色?」とか訊かれますが、いつも観るという無駄なエネルギーの使い方はしません。
10年くらい前までは、常に観ていましたが、それが無駄なエネルギーの垂れ流しだとわかってからは、観たり観なかったりと、「幻視」ファンクションを切り替えられるようにトレーニングしました。
いらない情報を多く持つということが一番のエネルギーの無駄使いなのです。
とかく現代人はいらない情報を持ち過ぎています。
何か食べようと思ってもあまりに多くの情報を持ちすぎているので、選択の幅が広がり、そして、選択することにさえ能動的なエネルギーを消費してしまうのです。
実際は、受動的なエネルギーの使い方が適切な場合も多いのです。
例えば、田舎に住んでいて、レストランも、ファーストフード店も、コンビニもなかった場合は、受動的にその土地で取れた作物を使って、料理するしかありません。生きて行くために。
ひょっとしたら、「昨日もアレ食べたよ。今日もアレ食べるか。」くらいの感覚で受動的になってしまうかもしれません。しかし、思考し、情報を操作し、情報を取捨選択して、決定するまでに使われるシナプスに対する電気信号のように目に見えないエネルギーの消費は、手順も減り、時間も減り、大きく節約できるのです。
そして、先ほどから述べている非科学的な「幻視」にしてみても、目に見えないエネルギーが、脳構造に働き、ひょっとしたら、未使用といわれる7割の脳の領域を使用しているのかもしれません。写真の『性命法訣明指』(趙避塵)は、比較的近代の本で、1933年(民国22年)に著された内丹と呼ばれる人体の神秘を生理学的な観点から追求した丹書です。千峰派と呼ばれる仙道流派のテキストです。
その内容は、脳死の問題や心肺機能の停止、人間の知覚感覚から大脳と小脳の機能の違いまでが、詳しく説明されている。仙家が如何に世に先駆けて、人間の脳の構造について研究していたかが伺われるのである。我々は、先端の科学と比べても見劣りしない東洋の伝統文化の持つ人体の神秘に対する研究レベルに圧倒されるのである。そこには、不変の真理があるのかもしれない。
古代東洋の「気」の世界観に基づく人間のエネルギーの供給と使用方法に三段階の区分けを設け、仙家の扱う「三寶[宝]」(精・気・神)と佛家の「三家」(身・心・意)とは完全に対応し、「三元合一」、「三歸一在」は説かれる。
下元 ・ 慾界のエネルギー供給は「煉精化炁」(精を練って気をつくる)
中元 ・ 色界のエネルギー供給は「煉炁化神」(気を練って神をつくる)
上元・無色界のエネルギー供給は「煉神還虚」(神を練って虚に還す)
現代で、功法と呼ばれるトレーニングをする人たちにいつもアドバイスすることは、まず、「漏盡[尽](ろじん)」について、徹底して指導します。それは、『慧命経』(1794年・柳華陽)の「漏盡圖」で説かれる様に、人間のエネルギーの漏れを生理学的にも読み解ける。フロイト(1856-1939 )のリビドー理論に通ずるものがある。
目に見えないエネルギー、例えば、「気」を貯蓄する当たって、自分の貯蓄できる限界量を上げるより、この現代社会の生活様式により、ただ闇雲に無駄に消費されて行く「気」の消費のされ方を改めるほうが何倍も効率的だからです。
そのために、一定量の「気」が入った人間を水袋に例えるならば、沢山の穴が開いて、水が噴出している状態であることを危惧し、穴を塞ぐ事が肝要なのです。これが、ぼくの提唱する「ワーク」の根幹の一つです。現代人は、あまりに三元のエネルギーの用い方が偏り、下元のステージである食物を摂取し、それをエネルギーに変えて、欲望を原動力とする機械に成り下がっている。
「食品の安全性より、食物の不足より、まず、人間が自然界から摂取するエネルギーの供給と使用方法を改めるべし」と、ダニエルはいつも説くのです。そうです。三元、それぞれのステージのエネルギー供給と使用を伴ってこそ、人間は正しく生きることができる。今、大量に安全な食品を供給し、人間に下元のエネルギー供給(欲望する機械)を助長させるのではなく、偏った人間の生き方を改める小欲こそが求められていると、私は切実に説くのです。
『天台小止観』(~597:智顗)では、この「気」が漏れて行く穴である漏れる場所を塞いで行く事が非常に簡潔に整理されて書かれています。「漏尽(ろじん)」、漏れることを尽くすとは、「気」が漏れなくなるということです。
実際に人間は、食事をするときも、寝ているときも、町を歩いているときも、常に気が漏れ続けています。自分の心と向かい合うとそれがよくわかります。そのために、瞑想は必要不可欠なのです。
そして、今日また知ったのは、「気」とは「秩序を維持しようとする働き」であり、自分が「幻視」する時にも、「幻視」する秩序の働き、つまり、形態を持った気がまわりに流れ出し、その秩序に感染する人も現れるという興味深いものでした。
だから、昔の仙人たちは、怪力乱心を語らずということで、そういったファンクションを弟子達には見せても、一般人の前で披露しなかったのかもしれません。( ・ノз・)コソコソ
今度から、オレも注意しよっと。(;◔ิд◔ิ) !!!
この「幻視」を最もエンジョイするのは、自然界の一部である我々が自分という小窓を通して、自然界を覗くことである。功法バカたちは、自分の勝ち得た識に刻まれた内側に宿るタトゥーの如き紋様こそが、確信なのです。ダニエル的に言えば「回路」が開くということですが。
そういった能力に縋ったり溺れたりするのではなく、それを己が功夫(ゴンフー)の段階と捉え、自分の成す功法への確信や指針として、功夫への執着をも超えて、先にある景色を見つめることが望ましいことです。
人知れず個人情報に触れる「幻視」のような能力は、自然界において保たれる秩序の中で、必要なものだったのか必要でないものだったのかは、旧約聖書の「ダニエル書」などを読めば明らかだろう。
ただ、心無い人間が勝ち得てよい能力ではない。だから、「幻視」は制限されなくてはならないことをウィリアムは、「天使の涙」で垣間見たはずだ。醜い大人たちによって、翼を折られた少女が再び飛び立つ瞬間を。そう、人は生きているうちに何度でも生まれ変われる。
その日、ぼくの観た「幻視」から溢れ出したヴィジョンは、時を越えて無垢な少女の凍てつかせた氷の心に触れた。氷から溶け出した水は、頬を伝って流れ続けた。
ともすると、人間の定義する正しさなんてどうでもよい。人間が定義できない正しさを判別する能力が「幻視」なのかもしれない。そう、「幻視(ヴィジョン)」とは完全に芸術(アート)の領域なのだ。そして、アートは感染するのだ。人の心を感化するために。つまり、ヴィジョンよりもアートが先にあり、その後に万華鏡のように広がるヴィジョンが咲き乱れる。そして、ヴィジョンは幻想ではなく現実になる。感染する幻視からも明らかだ。
幻視から飛び出した色とりどりの「光」が、この薄汚れた世界に映すものは何だろうか。自然界のバランスが乱れるとき、その均衡を保とうとするかのように、ヴィジョンを観る沢山の幻視者たちが現れる。そして、どのヴィジョンが投影され、最後まで残るのだろうか。ヴィジョンを掲げた人類の潮流は今揺れ動いている。地球から溢れ出す想いを束ねて、ヴィジョンは肥大化する。それは、まるで錬金術、魔術の世界の果てだ。全ては、想いで創られて行く。全ては、「感染する幻視」なのだ。
何人も画家の描いた絵、画家の見つめるヴィジョン(幻視)を否定できない。私は絵の代わりに文字を綴る。このヴィジョンを信念と共に。
この地球の 大気圏と呼ばれる、 地球の万有引力によって保たれ、高度500kmを超える範囲まで広がっているている気体の層の中で生きる人間。まるで密閉されたコロニーで生きているようだ。
我々に必要な水や塩も、全て循環し、減ることもなく増えることもなく姿カタチを変え、我々の生存に不可欠な水や塩は、このコロニーの中をループするかのように気が遠くなる年月を経て、再び我々の体内に入る。全ては、お借りしているに過ぎない。誰かが流した涙が、果てしない年月を経た未来へ、再び誰かの生命の維持に必要な水として、塩として繋がるかもしれない。
そう、我々は皆、時間や空間を飛び越えて繋がり、全てはお借りしているに過ぎない。ヴィジョンやアートさえも。
我々は感染し続ける生き物。
もがき絡み合い続ける生命、交錯するヴィジョンの光。この果てにあるものは・・・それは、「感染する幻視」なのか、それともこの牢獄からの「脱出」なのだろうか。いずれにせよ、個においてもたらされるべき問題に一人一人と踏み込んで行く時代が来たのだ。願うならば、それが「半農」の残り半分であることを。
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