11月30日、悲しい知らせが届いた。笑顔が損なわれかけ、人々の活気さえもがなくなって行く悲しみの「限界集落」で、またかけがえのない一つの命が消えた。
ぼくが綾部(京都府)の大地と出会うきっかけになったのは、友人のトッシーのおじいちゃんの田植えを手伝いに綾部に行ったことが、はじまりだった。ぼくの父方、母方両家の祖父は、生まれたときから、既に亡くなっていたため「おじいちゃん」という存在を知らないぼくにとって、トッシーの綾部のおじいちゃんとの出会いは、思い出深く、本当のおじいちゃんのような存在だった・・・。
2002年も終わる頃、ぼくは人生でかつて味わったことのない衝撃と共に、逃げるように韓国から京都市内に移り住んだ。何故、京都だったのかは当時を振り返るとわからない。
そこで、はじめた暮らしには、いつしかトッシーが東京からやって来て合流し、二人で一緒に仕事をするようになる。高校時代からのこの友人は、ぼくにとって癒しそのものであった。
トッシーは、京都出身で、ぼくらが京都市内に住んでいたことから、2003年の5月に彼の故郷である京都府綾部市睦寄町に一緒に田植えを手伝いに行った。ぼくにとって、初めての綾部だった。
農作業の素人のぼくらにとって、田植えは楽な仕事ではなかった。ぬかるんだ田んぼに足を取られ、水田用の水路から、つぎはぎしたビニールで編んだパイプを田んぼの四方に配して、トラクターを使わずに苗を手で植えてゆく。列を乱さないように、横との幅に気遣いながら、作業をしてゆく。
田植えの作業は朝一番から始まり、お昼には腹ペコになる。昼食は、おばあちゃんの作ったおにぎり。それが、おいしくて、おいしくて。普通のおにぎりに魔法がかかったようにありがたいものに感じる。土のにおいを嗅ぎながら食べるお米は芳香さえするようだ。
お米を作る作業に従事しながら、食べるお米はひと際ありがたいものに変わった。何でもあり、便利な生活に満たされた都会人が、こんな辺境の片田舎で、満たされ、癒されてしまう。人は真に大切なものや大事なものを見失っているのかもしれないことに深く気づかされた。大事なものはなくしてから初めて大事だと気づくことが多いのだろう。
夜には足が筋肉痛になったりしたが、それが心地よく、体内をプチプチと巡る熱い気の流れを体感し、その土地を全身全霊で感じ始めた。それが、ぼくが綾部を霊学的に読み解いてゆく、きっかけになったのかもしれない。今にして思えば、ぼくはその土地に呼ばれたのだ。そして、今も呼ばれ続けている。多くの仲間と共に。ここに縛られたものを解放するときが来た。
盆地の間にでき、上林川の分岐する間にある綾部市睦寄町の一角で、ぼくが自分の人生で味わったことがないほどに癒された。
夕方になり、暗くなる前に終えた農作業の後、眼前に広がる水田に、自分たちが苦心して引いてきた水が程よく入っているのを確認しながら、植えられたばかりの若い稲が風でそよぎ、暮れて行く夕日が山間に消えかけ、水田に映える光景は、なんとも神秘的だった!
人間は自然の神秘と出会いながらも素通りしているのかもしれない。欲望だけが加速し、産業化され、都市に人口が集中し、都市からお金を吸い上げるための内部構造を持つ資本主義経済の中にあって、人々の欲望の果てに行き着く先が、目の前に見え始めた。
「限界集落」は、欲望に踊ろされた人々のツケを払わされているのだ。そして、この「限界集落」は、日本という国家の成れの果てを象徴している戦慄すべき事実に一体如何ほどの人が気づいていようか。
日本は、世界的にみてありえない地価によって、貨幣価値が高騰し、結果、輸入品に頼る仕組みと、政治もまた農家を省みることができずに、人々は自分の生まれた土地をあとにする。また、この国は外国資本に翻弄され、様々な土地問題を抱えている。
土地問題の解決には、複雑な権利関係をめぐる利害調整、土地に対する根強い所有意識など様々な課題があり、短期的に解決がつく問題ではないとされる一方、その解決のためのタイムリミットもまた存在するのだ。
地価が高騰するのは、基本的には、その上で行なわれる経済活動が活発だからだとされているが、その経済活動の原動力は人々の煽られた欲望に過ぎない。
加えて、過疎化・高齢化の進行で急速に増えて来ている日本全国に散らばる「限界集落」。このような状態となった集落では、集落の自治、生活道路の管理、冠婚葬祭など、共同体としての機能が急速に衰え、やがて消滅に向かうとされている。共同体として生きてゆくための「限界」として表現されている「限界集落」には、もはや就学児童より下の世代が存在せず、独居老人やその予備軍のみが残っている集落が多く、病身者も少なくない。
「限界集落」に次ぐ状態を「準限界集落」と表現し、55歳以上の人口比率が50%を超えている場合とされる。また、限界集落を超えた集落は「超限界集落」から「消滅集落」へと向かう。
人生において、ひと時の時間を「限界集落」に指定された綾部の睦寄町の友人のおじいちゃんの家で過ごした。それは、ぼくにとってかけがえのない時間だった。
農作業以外にやることもなく、友人のトッシーと牛を飼っている近所の人の家に牛を見に行く、「牛だよ。牛がいるよ。」と、無邪気にはしゃぐ。
その日の夜には、おじいちゃんとおばあちゃんに牛を見たことを話したりして、盛り上がる。
おじいちゃんは、昔牛を飼っていた時の話を始め、ぼくらはすっかり聞き入ったものだった。
ダニエル:「おじいちゃん。オレ牛童子になるよ。」
おじいちゃん:「なんじゃ?牛童子って?」
トッシー:「ダニエルは、あの黒牛を飼っている人が羨ましいんだって。」
ダニエル:「おじいちゃん、オレあそこの人の家の牛に乗って、
笛を吹きながら、仙人の付き人みたいに、
家に戻って来たいんだ。故郷に錦を飾りたいんだ。」
おじいちゃん:「いかん、いかん。それはドロボーじゃけんのぉ。」
トッシー:「オレもダニエルと牛に2ケツする!」
おじいちゃん:「いかん、いかん、ドロボーは、しちゃいかん。」
ダニエル&トッシー&おじいちゃん:「ぎゃっはっはっはっはっ」
こんな風にして、いつも楽しい夜はふけて行った。ぼくたちは、昼間は川を散策し、森林に入り、夜にはおじいちゃんに、見たもの感じたものをたくさん、たくさん報告するのが楽しみだったんだ。おばあちゃんはいつも、話を横で聞きながら、微笑を浮かべ、りんごむいてくれたり、お茶を淹れたりしてくれ、自分でお茶をつくっていることや地元の食材についてたくさん教えてくれた。
おじいちゃんは、ぼくらの見たもの感じたものを自分の一部のように、親しみを込めて解説してくれた。実際、おじいちゃんは村のことを何でも知っていた。
こんな純粋なおじいちゃんでも、憤慨することもあった。農○に搾取される生活についてだった。丹精込めて作った作物も二束三文で買い叩かれ、やれ、トラクターのローンだ、農薬に肥料だとお金を搾り取られ、農民は搾取され続けている現状を毎晩語ってくれた。
悔しそうだった。思えば、農民が豊かに暮らせるならば、息子や娘が都市に行って仕事を探す必要などなく、孫のトッシーも、わざわざここに何時間もかけて戻ってくることなどなく、普通にここで暮らしていたのかもしれない。
そんなささやかな家族との絆を引きちぎられた時に、人はどうやってその悲しみを乗り越えるのだろうか?
たまに会いに行けばそれで慰められるのだろうか?
田舎でのどんなに不便な生活でも、家族が一緒にいられないことが、一番不便な生活なのではないだろうか?
そんなにも、快適や便利さの恩恵を授かる都市の暮らしは偉大なのだろうか?
ここでの生活は、いつしかぼくたちに都会での生活を否定させた。
広い昔ながらの日本の家で、ポツンと背を丸めて暮らすおじいちゃんとおばあちゃんを見ながら、ここでの辛い農作業を老人二人で耐え忍びながら暮らすその姿に悲しみを覚えた。
ぼくらが去って、しばらくして、あんなに元気だったおじいちゃんは、病院に入院した。退院してきたときには、孫のトッシーの顔さえ識別できないほど、ぼけてしまった。せめて、話し相手がいればそんな風にはならなかったのかもしれない。これが「限界集落」の実態なのだ。
おじいちゃんの自慢の水田はただの土くれになっていた。おじいちゃんを探して、また戻って行ったら、別の家族がそこには住んでいた。アレから、おじいちゃんに会えぬまま、近況だけ、トッシーに聞きながら、五年が過ぎ、去る四日前におじいちゃんは他界された。
変えなくてはならない!
人の不幸によって作り出される虚像の幸せなど必要ない!ヽ(`△´)/
断固として、変えなくてはならない!
限界集落に住むおじいちゃん、おばあちゃんたちを欲望する経済の犠牲者にしないために!
この資本主義経済の路線の先には、もはや破滅しかまっていないのだ。読者も気づかなければならない。
虚像と虚飾に魅せられた幻像を現像してはならない。資本主義経済社会は、人々の欲望を肥大化させ、その背景で多くの人の人生を踏みにじっている。
五人の農民に対して、一人の農○の職員という構図は既に間違っている。
おじいちゃんのような農民はちゃんと知っていたのだ。自分たちが搾取されていることを。
今でも、思い出す。おじいちゃんの一言。
おじいちゃん:「いかん、いかん、ドロボーは、しちゃいかん。」
おじいちゃんは、本当のドロボーと戦っていたんだ。人生を賭けて!本当に奪われてはいけない家族との絆や大地を守り続けたんだ。
農民をバカにするなよ~!ヽ(`△´)/
おじいちゃんの無念はオレが晴らす!風水師として、村一つ救うことができないのならば、風水師という肩書きを潔く捨てようではないか!
「綾部補完計画」は日本を変える起爆剤となるだろう。一人で何でもできると思わない。星の光たちは収束され、仲間が集まり始めた。さぁ、ぼくらのキャンパスは開かれたのだ。破壊的なヴィジョンを変えるために突き進もう!
その時あるであろうはずの一つの笑顔が見られなくなったことが悔やまれてならない。
おじいちゃん!約束は忘れないよ。もう、オレにとって綾部は故郷そのものなんだ。風が吹いてきて、その水が、その土が語りかけてくる。
ダニエル:「おじいちゃん、オレ牛に乗って、
笛を吹きながら、仙人の付き人みたいに、
家に戻って来たいんだ。故郷に錦を飾りたいんだ。」
あれから、五年が過ぎて、牛童子は成長し、道號と位階を手にした。丑の年に戻って行くよ。
おじいちゃんの冥福をお祈り申し上げます。四十九日の法事には、参加させていただきます。
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