建築界のゴッドと囁かれるO氏にイスカンダルさんを通してお会いできた。O氏の噂は兼ねてから聞いており、常々お会いしたいと心から願っていた。
そのきっかけは、穀物の自然栽培とその市場と展望について、まったく違う角度から、私と同じ見解を持つ人がいたのが、私にとって驚きだったからだ。
建築界にこの人ありといわれる天才O氏が、建築というものを如何様に定義しうるかという見解にも、非常に興味があったのだ。
O氏の指は鉛筆で図面を書きすぎて曲がっていた。
O氏:「今の若い人たちは、CADを使いこなしますが、鉛筆で図面を描けません。しかし、その鉛筆の線の太さ一つ一つに感情がこめられているのです。その部分を読み解かなくてはならないのです。」
まさに、設計の図面を楽譜のように捉え理解し、奏でる術を知っているのだ。
今まで出会った建築家で、建築と未来の関係を理解していると思えるものは残念ながらいなかったが、今日初めて、建築を未来のレベルで設計する達人に出会うことができた。それは、風水の理論と経験則に違うことなく一致していたのが衝撃的だった。超一流の建築家は自然と超一流の風水師になっているのだった。
O氏は、教訓に満ちた様々なことを語ってくれた。
材木は2年は寝かせなくてはなりませんが、様々な問題により、現代では実行されていない。
木を切り出すのと木を育てるのは同じスピードでつりあっていなければならない。
材木がどのような方位に成長していたかを材質見て即座に判断し、その方位に配して建築物を建てなければならない。
日本では、南向きの庭を好むが、これはマチガイで、花や木は南を向くのだから、花や木の背を見る位置に庭を設けることはまったく自然の理にそぐわない。
興味深い話に、その特殊なインスピレーション能力から溢れ出す自然の声を聞く力には絶大な自然に対する威厳さえ感じた。
ダニエル:「俗に言う百年住宅というものがありますが、百年の耐久力を誇る住宅があるとして、その建築物の持つ意味とは何でしょうか?」
O氏:「百年だろうと、千年だろうと持つ家を立てることはできます。しかし、私は百年で三回建て直しができる住宅を造ることを勧めています。現代にあっては、家長がいて、長男がおり、長男がその家のあとを継ぐという伝統様式にのっとった家の使い方をするでしょうか?」
ダニエル:「核家族化が進む現代にあって、そのようなケースはまれでしょうね。」
O氏:「そうです。それならば、30年を一家族の使用する時間タームとして定めて、ベースを百年間持つ構造にして、30年単位で三回リニューアルできる構造物を作るのが、もっとも現代に相応しい建築様式だと私は説くのです。家も人間と同じで、メンテナンス、治療が必要なのです。」
ダニエル:「なるほど。おっしゃるとおりだと思います。それは、未来への洞察を含んでこそ、建築物が有用なものとして生きるということですね。それには、まず現代社会というものを捉え、それを建築思想に還元し、建築物として実現する。
それでは、限界集落のように失われるだけ失われてしまった村が、今後の未来が再びあるべき、家族が一つになり暮らし、農業が活性化し、それに伴って村が再び機能し、成長して行く未来を踏まえた建築物というものがあっても良いということになりますよね。仮に、そういう未来があると確信するのならばですが。」
O氏:「もちろんです。建築とは時代を見極め、未来を踏まえることができなければなりません。」
ダニエル:「私の友人で、50歳を過ぎたら自分も蓄えがあり、綾部のような村に行きたくなり、のんびり暮らし余生を送りたくなるだろうと言っていたものがおりますが、私は言いました。君の未来は、過去と現在の中にあって、未来には何一つないと。友人は夢を語ったのに、未来に夢がないと言われ、さぞ驚いたでしょう。
しかし、この建築物が未来にも備えられているお話と同じですよね。友人は、東京で生まれ東京で暮らし、技術職にあり、給料も平均以上はとっている高給取りです。しかし、安定した日本経済の庇護にあり、その中でつくられた自分の思い込みに過ぎずに、全ては友人が生きてきた時間が、そのまま延長したであろう未来への希望的観測であって、予測した未来への蓄えも、50歳になるまでしているであろう仕事も、過去と現在の経験と自分の感覚から導き出した"予想"に過ぎません。
それは、過去歩んできたものによって"受動"的に作り出された未来予想図に過ぎず、実際には、50歳の頃は無職で蓄えはマイナスかもしれないと言う未来の可能性だってあるかもしれません。もしくは、予想していた蓄えも、通貨危機が来て、紙切れ同然での紙幣となり、自分で予想していた蓄えとしての価値を失っているかもしれません。
つまり、過去と現在に依存するハンドリングは、あくまで受動的な未来であり、確約は自分の思い込み以外ありえないということです。それならば、私は自分で"能動"的に勝ち得る未来予想図が、より確かなものであると思えてなりません。つまり、自分で見極める未来へ自分で躍進して行き掴み取るということです。」
O氏:「つまり、どうなりたいかという夢ではなく、どうなるかという夢ということですね。それは、人間と同じ様に建築物にも反映されるべきでしょう。どうなるかという建築物。それは、そうなるという信念と未来への確信から打ち出される建築物ということなのでしょう。」
ダニエル:「今、日本は激動の中にいます。誰もが未来への確信を持てないのではないでしょうか。つまり、団塊の世代(1947年から1949年-1950年の第一次ベビーブーム)までがその様なこうなるだろうという"受動"的な夢を持って生きて行き実際そうなった時代とは打って変わり、団塊ジュニア(1971 年〜1974年の第二次ベビーブーム)は、自分で想定した夢とは違う夢に未来で出会うでしょう。
つまり、現実には日本国内において非常に厳しい少子化と高齢化社会で、2100年には6,000万人もの人口が減少するという「人口半減社会」を迎えることが予想されています。人口が増え続ける国際社会の中において、日本は、人口半減社会と化す。それは、経済力が著しく低下し、産業や工業も半減する可能性があるということを強く示唆しています。その頃まで生きているかいないかではなく、日本国内において、その様な激動の変化を迎えて行く最中に我々は生きているのに間違いがないわけです。」
O氏:「ここで今後の未来への建築が問われる。そして、それは能動的、受動的どちらの夢を人々が選択するかと言うことなのでしょう。」
ダニエル:「ここからが我々の選択だと思います。どんな夢を見てどんな夢を実現するか。一緒に、未来の日本のモデルを実現しに綾部に行きませんか?」
O氏:「各分野のエキスパートが求められている。私がかつて夢を見た伊豆でのプロジェクトは、夢まで網羅した総合的なものではなく、あくまでも病人のための避難所に過ぎなかった。共に、綾部へ行きましょう。そして、夢を実現しましょう。日本の未来の夢と意味を見出すために。」
我々一行の第一回綾部視察団は、合計8人になった。それぞれが、各分野のエキスパートである。未来は受動的に想定して待つだけではなく、想定できない日本の未来をただ予想するのではなく、能動的に作り出す。しかし、それは昔の日本に回帰することなのかもしれない。
文化人類学者であり、『現代社会を照らす光――人類学的な省察』で有名なC.ギアツ(Clifford Geertz, 1926年-2006年)が考えるように文化と呼ばれるものが、どう更新されるかあるいは見捨てられるかは、わかっていない。そう、我々は未知の分野に足を踏み入れることになる。現代社会を照らす光として、闇を切り裂くために。
「文化構築の力学、すなわち、文化がそもそもどのように形成され次いで維持され、その後調整され、結局は、更新されあるいは見捨てられ、変形されまたは放棄されるかについては、ごくおぼろげにしかわかっていません。」
『インボリューション―内に向かう発展』(C.ギアツ(Clifford Geertz)
現在の人口推移における予測は、2050年には、中位数年齢は53歳、高齢化率は約36%と、世界的にみても大変「年老いた国」へと変貌してしまう。2006年から、死亡数が出生数を上回る自然減が始まり、2020年代には、年間の自然減が70万人台にもなる。2050年には現在(2004年)よりも約3千万人も減少する。2100年には6,414万人(中位推計)と、現在の総人口から6,000万人もの人口が減少するという「人口半減社会」を迎えることが予想されている。
「人口半減社会」になった時に、この都市での密集形の人口分布も大きく様態を変える。というより、物理的に変わる。都市に仕事を求めるのではなく、仕事は各地に転がっているのだ。専業農家である必要はない。兼業で良いのだ。しかも、作物だって家族が全員食べていける分だけ作れば良いじゃないかと、単純な発想に気づくべきだ。半農半禅である。
建築界のゴッドとの出会いは、私の抱いてきた考えを確信に変えた。そして、ゴッドO氏の合流が、一気に戦局を切り開くだろう。一人一人が異常な能力を持っている専門家集団である。この強烈な軍団に何も怖いものはない。本日の緊急ミーティングに一緒に参加した「綾部補完化計画」の強烈なメンバーであるデザイナーF氏は、無邪気にテーブルに綾部市長の名刺を置いて言った。
F氏:「会ったことあった綾部の市長。顔が鬼だったよ。」
一同:「鬼退治!? 話し早いじゃないですか。(爆)」
今日の建築界のゴッドO氏との出会いは様々な運命に色づけられ、「長い間会えなかった朋友(ポンヨウ)にして戦友にやっと会えた」という感動がこみ上げてやまない。
O氏の持ってきた伊豆で形骸化して実現はされたが、叶えられなかった夢をつめ込んだO氏の未来地図は、拡張され、その目的を見つけて輝き、この地図は日本の未来の象徴として実現されるのだ。
そう、建築とは時代であると、ダニエルは、考える。
本当の建築とは時間を建築するのだ。未来という時間を建築できてこそ、風水師が調和を求め、建築家が魂を注いだ鋳造物は、永遠を模写したものとなる。限りある生を持つ人間が無限を追い求め、この肉体が朽ちようとも、残された我らが分身は、我々が追い求めた無限への回答を残す。それが答えであり、「永遠への回帰線」という作品となるのだ。
人が夢を見ると書いて「儚」という文字になる。この人が見る夢、儚(はかな)いことで、人は偉大になれるのだと思う。あっけなく、かりそめのような生を持つ人間が、この儚さの意味について真に理解したときに、人はもっと力を発揮して生きることができる。
この顕著な例を古代人の営みの中に見つけ出すことができる。人類史上類を見ない人間キリストの死から「儚さ」を読み解こうとしたものがいる。ヤコブである。『ヤコブの黙示録』から引用したい。
「・〔§27義人ヤコブ〕主が言った…あなたは自分に対して大いなる怒りと憤りをかき立てた(キリストの処刑にたいして、為す術を知らなかったため)。しかし、その他のことが起こらなければならなかったのだ。
・〔§28ヤコブの苦悩〕しかし、ヤコブは臆病で泣き出した。そして、彼は岩の上に座った。
・〔§29定めを受ける〕主が彼に言った、ヤコブよ、あなたはかくまで苦しみを受けている(キリストの死)。しかし、悲しんではならない。肉体が弱いのだ。それは定められたことを受けるだろう(ヤコブへの受難)。しかし、あなたは臆病であっても恐れてはならない。
さて、ヤコブはこれらの事(ヤコブに与えられる肉体の苦痛を伴う受難)を聞いて、目の涙をぬぐい、非常に苦しんだ。」※ カッコ内著者加筆
このヤコブの内的な葛藤に現れてくる肉体的もろさを嘆き、それを克服しようとする微細な精神活動こそが、「豊か過ぎた病」といわれる現代人の失ってしまった心のあり方なのです。それは、「自らの魂を、また神を信じる」という気持ちに見られる崇高にして、かくも人は気高く生きることができるという偉大な精神を忘却してしまったのです。
そう、我々は儚いから一生懸命、気高く生きなくてはならないのだ。
時をつかまえて、時代をつくろう!未来は待つものではなくて、つくるものなのだから!
とりあえず、今月8人のサムライは綾部を視察しに行く。時を組み立てるために。
この8人も、なかなか、ただものじゃないぞ~!唯の物じゃないから。ヽ(`△´)/
我々が感じるものがカタチとなってゆく瞬間に胸が高まる。こんなにも胸が清々しく感じるのは久方ぶりです。
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