「詩は志の之く所なり」とは、素晴らしく心に響く。
今回、京都から戻って、「風水は志の之く所なり」と痛感している。
このブログ内の「風水西遊記」にある綾部篇での体験に負うものが大きい。
どれほど、大きいかというのは、読んでみて下さいな。
綾部での体験が、「詩言志説」と重なり、ここに自分の「志し」を整理する意味でも、詩言志説を考察し、己の「風水言志説」の成り立ちを考えてみたい。
□詩言志、歌永言、声依永、律和声。 『書経』尚書 堯典
詩は志を言い、歌は言を永くし、声は永きに依り、律は声に和す。
詩は人の志を言葉に言い表すものであり、歌は言葉をながくのばしてうたうものである。ながくのばしてうたうのに音がつけられ、音は十二律(の絶対音)と調和してメロディとなる。
□詩者志之所之也。在心為志、発言為詩。 『詩経』大序
詩は志の之く所なり。心に在りては志と為り、言に発して詩と為る。
詩は人間の志が動いてできるものだ。心の中にあるときは志だが、言葉に言い表されると詩となる。
□能楽時與萬物之自得也。
聲成其文而謂之音。是知、懐其時則謂之志。其物則謂之情。發其志則謂之言、揚其情則謂之聲。言成章則謂之詩、聲成文則謂之音。 『伊川撃壌集』序
能く時と万物の自得を楽しむなり。
声その文を成して、之を音と謂う。ここに知りぬその時に懐(おも)えば、即ち之を志と謂う。その物に感ずれば、則ち、之を情う謂う。その志を発すれば、即ち之を言と謂い、その情を揚ぐれば、即ち之を声と謂う。言が章を成せば則ち之を詩と謂い、声が文を成せば、則ち之を音と謂う。
「時と万物が自得しているのを楽しむ」とする邵雍(1011年-1077年)の人生観は、正しく「楽」であり、それは邵雍の見つめる世界観でもあった。
このような詩観である「詩言志説」は、邵雍に到り、二系列に類型化され、天下の大儀を失った詩に対する嘆きとして反映された。
時-志-言-詩
物-情-声-音
物を時と関連させて読み解く哲学詩の始まりであり、それは五術にも大きく反映されて行くことになる。そのようにして、「詩言志説」は、『書経』から『伊川撃壌集』に到り、「詩言志時説」となり、「時と物」の因果関係を持つ二元論として成り立ち、「事物は時と共に姿を変えるが、其の関係は詩として保存され、音と成って甦る如し」関係を言っているように自分には思える。
風水も時代の影響を受け、技術や方法論は変わるが、其の本質は志において変わることがないはずである。其の志とは、風水を扱うものの心なのではないだろうか。
私の風水も、かくのようにありたいものである。
風水者志之所之也。在心為志、発言為風水。
風水は志の之く所なり。心に在りては志と為り、言に発して風水と為る。
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