今、師兄から、張明澄記念館の「山」の部分を早く書けと、お叱りを受け、五術のなかに、瞑想世界である「静座」を主とする仙道を入れてしまうのは、かなり問題があると、電話で打ち合わせをした。
もともと、張先生自体が、禅や仙道北派などを五術*の「山」に分類するのは、間違っていると言う意見に対して、同意してくださっていた。 *五術・・・山・医・卜・命・相
命、卜、相を中心とする「占験派」という大カテゴリーに属する流派の持つ、仙道は、必ず、記号類型論とも言うべき、記号、符号である五行、八卦、六十四卦、十干、十二支などの類型化された象徴を体系の中で示唆し、物事の「ものの見方」の起点にする。
つまり、人間の認識を透過するかしないかが、この区分になる。つまり、五術が「山」に属するか否か。認識を構築するほうに動くか、認識から記号類型を引き出し、認識を使うという意味で、広げて解体するほうに動くかという二つの相異なる方向性を持っているのが、「山」であるか否かの区分である。
何も認識する媒介の余地のないシャーマニティックな、より歴史的に根源に遡る仙道と、ソフィスケートされ、認識を媒介とする必要性が生まれた五術の「山」に属する仙道ということになる。
ところが、禅などに顕著なように、ただ坐る「打坐」を修練の主体性に添えている宗派や流派を「山」の中におくことは出来ない。そこには、五術を定義する上での「記号類型論」が見当たらないものが多いからだ。
そのため、イコンなどにみられる象徴性、仏を観想する密教も、厳密に「山」に入れるべきではないだろう。張先生も、南華密教と東派仙道を、占験派の一つ、透派における「山」の区分に入れていなかった。
禅のようにただ、「打坐」をする瞑想と呼ばれる静功、性功などを主体とする丹鼎派は、内丹理論を要旨とし、河洛を記号類型とはしながらも、主体性が、「打坐」なので、五術の「山」術に分類すべきではないのだろう。そのため、東派には、河洛があるため、記号類型があるかないかの定義に基づくならば、あるということになるが、やはり、五術が一つ「山」に入れるべきではないだろう。
つまり、命・卜・相を持たない仙道流派は、五術の「山術」に分類すべきではないとするのが、私の結論で、命・卜・相を主軸とする占験派の持つ、記号類型に基づく象徴性を人体開発に取り入れた仙道が、五術の「山」術といえる。
また、記号類型とは異なる象徴を用いる東密(中国密教)においても、象徴となる図像を記号類型に入れて定義するべきではなく、一つの宗教として捉えるべきだと思う。というのも、五術は宗教ではないのだから。仏教系列の密教に該当するのが、道教系列の密教である仙道ともいえる。
つまり、中国では「密教」と言ったときに、二つのものを想像してしまう。仏教の裏の顔としての密教である「東密(中国密教)」と道教系列としての密教「仙道」の二つである。
仏教系列の密教である東密(中国密教)は、ボン教というチベット土着の自然宗教とインドから来た密教の融合を経て、中国で発展した。そのまま、チベットで発展したのが、西密(チベット密教)である。
中国密教も分類が甚だ大変であるが、チベットを経由した名残である六法を持つか持たないかなどの区分けが、実践家にとって非常に大事なポイントや分類になるだろう。内容は、仙道の符籙派と類似し、その観想法に特徴と分類すべき点がある(ここではしません)。
但し、このような分類からは、五術「山」を分類項目に加えることが出来ないし、五術という体系を含ませて、帰納法的分類を行うならば、五術を基点に見つめなおし、いわゆる仙宗(仙道)における丹鼎派、東密(中国密教)、西密(チベット密教)などは、五術で言う「山」に属さないという分類になる。また、それが張先生をはじめ、東海金師兄、私の結論だ。
近世では、梁啓超が道家を玄学正派(経典派)・丹鼎派・符籙派・占験派の四派に分類しているが、これは、私が一実践家の立場として解釈の補足をするのならば以下のように考えるのが正しいことだと思われる。よく誤解されているが、道教と仙道は、別ものである。道教側は、仙道を道教と思い込みがちだが、仙道側としては、そんなものと同じにされてはたまらないのだ。
例えば、道教における符籙と仙道で扱う符籙では、行気、導引、存神、守一などの煉形手段における内容と本質が異なる場合が多い。
仙道は、日本的な意味の宗教と完全に一線を画する。拝むものも、信仰する対象も何もないのが、仙道なのだから、とても宗教とは呼べないだろう。
仙道は、「己が功夫のみが信仰」だが、道教は、ありとあらゆる神を崇める事を信仰とする。この点において、この二つは別もので、仙道は、禅に近いため、清代に到っては、仙道、伍柳派は、仙佛合宗を唱えた。そして、その内容は、根本的に唐代に起きた儒・佛・道(仙)の三教一致に基づく思想なのだ。思想的には、風水だけでなく、仙道さえも、唐代が全盛だったと言わざるを得ない。
<道家と山術の関係>
大分類 小分類 五術「山」との関係
道教 - 玄学正派(経典派)・・・五術の区分「山」に属さない。
道教 - 符籙派・・・五術の区分「山」に属する。
仙道 - 丹鼎派・・・五術の区分「山」に属さない。
仙道 - 符籙派・・・五術の区分「山」に属さない。
養生 - 占験派・・・五術の区分「山」に属する。
上記のように、道教、仙道、養生に係わる人間達を「道家」と総称することもあるが、その分類形態により、内容は、実に様々である。
そのため、明澄透派は、独自の「山」体系である記号類型論としての紫薇斗数による内丹理論や養生気功としての静坐法などを持つ。
仙道には以上のように誰も区分けなかったが、五術で言う「山」とは、厳密な区分けがあると共に、仙道独自の医学観がある。例えば、十二正経と奇経八脈の関係などは、様々な中医学者がいくら論じて、理論を作り上げたところで、全て間違っていると言わざるを得ない。この十二正経と奇経八脈の関係の中にも、仙道と言われる実践家が行き着いた医学よりも深い奥行き、そして、仙家たちの自ら人体を通じて勝ち得た共通認識がある。それは、理論ではなく、真実と呼ぶのに相応しい。
つまり、仙道の経絡論と医学における経絡論もまた、違うのである。世の学者達は、仙家が医家の理論を取り入れているように、解釈するものが多いが、全く関係がないか、場合によっては、その逆である。仙家たちは、己の心身を通じて、体験した認識を用いるのである。
その証拠に、奇経八脈を取り上げてみても、中医学における経絡論は、明らかに仙道の持つ人体医学とは別のことを説明している(ここでは省く)。確かに、世に普及している大多数の気功などの理論を見ると、中医学の経絡論をそのまま採用しているため、現在の世の中で知られている「気功」は、仙宗派による気功というよりも、中国医学による気功と考えるのが妥当だろう。
このような、一つ一つの点から考えなければならない「山」の説明における文章を張明澄記念館に寄贈するためには、もう少しお時間をいただきたい所存であります。
やはり、お世話になった先生に対して、「先生、あれから、ぼくも進歩しましたよ!」と、あの時とは、違う自分を先生の記念館で表現し、敬意を表したい。
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