来週から、しばらく、中国に出張してきます。環境問題を配慮した製品を中国に導入するに際して、環保局(環境省)、交通部(国土交通省)、科技部(科学技術省)らの代表である政府高官の立会いのもとに、北京電視台(中国最大テレビ局)の番組作成の撮影が入ります。
もう、随分前の話になるのですが、今回、中国に戻ることは、自分にとって、色々な想いがあります。それは、気功を通じて巡りあった想いから始まります。
子供の頃は、真冬でも、寒風マッサージをして、朝の四時半には、父親に公園に連れて行かれ、肉体的に厳しい、動功(気功)をこなさなくてはいけない毎日でした。
当時は何をやっているかわからなかったし、朝の気功が嫌いでしたが、成人を迎えた頃には、父親の教育の意味について、改めて、理解することが出来ました。そのきっかけを与えてくれた人が、趙光先生です。
きっと、それは一途に生きるものたちは、輝いていて、その輝きは、いつだって人に伝わるものだったと、今では思います。
日夜の精進も、強い目的のためになら、歯を食いしばってだって耐えられる漢(オトコ)だったら、そんな生き方をしてみたいと望んでしまうのが、悲しいところでもあり、また、自分の行き方を見つけた楽しいところでもあります。
人知れず努力したものが、必ず、あとで役に立つと信じています。
子供の頃、早朝にする気功が大嫌いだった私ですが、二十歳の頃には、当時の中国国家試験の中に置かれ、北京中医大学が発行していた気功実技試験におていて、最も難しいとされた「特級気功師」の資格を中国全土で最年少で合格しました。
ちなみに、この資格を持った特級気功師は当時、中国全土でも、二十数人しかいませんでした。日本では、秋山眞人さんが所有していますね。
この資格は、「特級厨師」などの資格と同じように、当時は、国家最上級資格の一つでした。今は、「気功」は、法輪功事件より、封鎖されてしまいましたが。
ぼくは、法輪功事件は、正しくない時代にあって、正しい気功のあり方の一つだったと考えています。患者が、その名のとおり、法輪、つまり小周天(正式なジャンルでは意周天だが)をして、難病を治すというのは、非常に効率的で、しかも、お金が一切かからない方法です。
貧しいものは、医療行為にあずかれず、気功をして自分で治すしかなかったあの時代の中国を知るものにとっては。
今から、10数年前の1996年、中国にあっては、その医療現場は、惨憺たる状況でした。
小生も、「特級気功師」試験のために、二ヶ月のインターン期間を中国北東部の北載河にある北載河療養所(北京中医大学の西苑医院系列に該当)で過ごしました。
そこの医療現場では、医者は昼寝におやつ付で、決められた医療費の支払いが出来る患者以外を治療しようとはせず、外では、200人近い患者が、貧しさのため医療行為にあずかれず、気功をして、自分たちを治そうと、生きようと、必死になっていました。
着いた日に、他の医師たちから、外の中庭にて、もくもくと気功に励む、一段を指差しながら、「あの人ちは、感染症で、末期のものが多く、感染に気をつけて近づくな」と言われました。
その二百人くらいの集団に興味があり、いつも行って観察を続けました。車椅子の老人から、見るからに死に掛けている人々が、一生懸命に気功をして、練功が終わった後は、
病者たちが互いに手を当てあい、治療を施しあう。
その圧倒的な生の輝きに、ぼくは惹き付けられ、「何とかしたい」と、思うようになり、
貧しく、医療にも見捨てられた患者たちに治療を施すようになりました。
正しいことを行なうが故に、生意気とされたインターン学生は、少しずつ、周りから隔絶して行き。ぼくの心の中には、ここの医師たちの横暴な態度に沸々と怒りの炎が燃えていきました。
昨日、手を繋いだ人が、今日から、もう二度と会えなくなってしまう。
そんな、悲しい日々でした。
それは、暇を持て余したこの病院の医師たちと共に、一致団結して、医療の改善に取り組めば、大きく改善され、死ななくてよい人をも助けることが出来たのです。しかし、ここの医師たちは、貧しくてお金の無い患者たちは、虫ケラのように死ねと言わんばかりの態度で、ほんとうに何もしないのです。
「特級気功師」試験が終わった頃、ぼくの怒りは頂点に達し、ある霊安室事件をきっかけに、爆発し、医師たちに殴りかかってしまいました。
その結果、ぼくは、写真撮影も終え、「特級気功師」の資格ライセンスが既に北京から発送されていたのですが、「こんな人殺しの資格がもらえるか!」と、怒鳴りちらし、その病院を飛び出し、北京を経由して、日本に戻りました。
仲良くなったそこの患者たちと別れてしまうのは、悲しかったのですが、そこを出ないと、
私自身の命の危険がありました。
そして、そういった、中国国家の中で虐げられるものを「いつの日か、絶対に助けに戻ってこよう。絶対に!」と、その場は涙の撤退をしました。
「人が虫ケラのように殺されるのは許せない!」というぼくの強い信念は、その悲劇の現場から生まれてきています。
ちなみに、その後、北京につくと、ホテルに政府関係者を名乗る一群の人が来て、ぼくに「趙光先生が、君に会いたがっているから、病院まで来てくれと」と言われ、そのまま、病院まで連れて行かれました。
気功世界の重鎮、「南の林厚省」、「北の趙光」とまで呼ばれた大御所に、当時、末期癌で死に掛かって苦しそうに、身悶える中、私は呼び出されました。
そして、「気功とは何か?」という最後の回答を頂きました。
その病院での会合は、とても神秘的でした。
趙光先生は、ぼくが何をしていたか、逐一知っており、また、北載河で起きた出来事も知っていた。そして、ただ「会いたかった。」とだけおっしゃられた。また、北載河でのことに話が及ぶと、「君は、そんな資格を必要としないでしょう。」とも言われました。今にして思えば、「そんな資格」、「そんな」の部分から、全てをお見通しだったのではないかと思っています。そして、「そんな」ぼくに想いを伝えるために、ぼくを呼んだというのは、後になってわかったことです。
ベッドの上で、横たわる趙光先生の患部に、ぼくが手をかざすと、「ああ、優しい気だねー。この気はどこに向かうのだろう。」と、目を閉じられ、にこやかな微笑みを浮かべていたのを憶えてます。寡黙で、あまり喋らない先生でしたから、今となっては、覚えている会話も少ないのですが、絶対に忘れない、あの一言だけは、今も、鮮明に記憶に残っています。きっと、その一言がなかったら、その後のぼくはなかったのだから。
その日から、三日間に渡って、ぼくは、趙光先生を看病しました。それには、息子さんに頼まれたからというのもありますが、ぼく自身が、趙光先生の不思議な包み込むような気にあてられて、趙光先生に、「色々と聞きたい。色々と教わりたい。」と、思うようになったからです。
その時、最期を看取りに付き添っていた息子さんは、涙しながら、
「親父は、真冬でも河で泳いでいた。そんな、頑強な人だった。君が、来てくれて、
痛みがなくなってきたと言っている。ありがとう。」と、言いました。
また、政府関係者も重病のため入室が許されない中、
「どうして、親父は、君に会ったことがなかったのに、君をここに呼んだのだろう?」と、疑問に思っていました。
ぼくには、このような疑問はなく、その様な不思議な会合に意味を見出し始めていました。
当時ずっと聞きたかった一言・・・子供の頃からの疑問。どうして、何度も、手術を受け、末期癌で、胃も切り落とし、こんなにも苦しんでいる・・・。質問をしたい気持ちは、つのっていった。ただ、知りたかった。趙光先生にとって、「気功とは何なのか?」、その答えを。状況が状況だけに、聞けない日々は過ぎていった。だけれど、最後に、勇気を出して、質問した。
ダニエル:「趙先生、趙先生にとって気功とは、何だったのですか?」
趙光先生は、起き上がるのも苦しい中、半身を起こし、静かに、安らかな顔で言いました。
趙光:「気功とは、一生懸命一途に生きることだ。」
その答えは、衝撃でした。これだけ、気功で名を馳せた大先生が何度も手術して生にしがみつくのは、おかしいという自分の疑問も、この一言で、謎は全て解けたのでした。
最後の最後まで、一生懸命生きようとする。圧倒的な生の輝き!
ここに気功の真諦があったのです。それは、明日来るかもしれない差し迫った死を前にした患者が、一生懸命、気功をして生き延びようとしていた姿、北載河療養所で見たものそのままだったのです。
当時、北載河療養所にて多くの患者に治療を施し成果を出し、間違った功法(気功の方法)を直す指導などもしましたが、気功の本質を自分は、何もわかっていなかったのです。中国気功における最高峰の「特級気功師」資格試験に合格し、もはや、気功を極めたという自負心もその時、全てが粉々に崩壊しました。
何故なら、医療に見捨てられ、必死に生きようとする北載河療養所で気功を行なう200人の患者よりも、「気功」の本質、「一生懸命生きる」ことをわかっていなかったのですから。
趙光先生の回答は、この一行だけだったのですが、その言葉に込められた想いは、ぼくの気功に対する取り組みや疑問、定義に及ぶまで、全てを氷解させ、ぼくの目を覚ます何かがあったのでした。それは、心と心のやりとりだったのかもしれません。
病を治す力があるから、すごいのではない、沢山の功法を知っているから、すごいのではない、毎朝、気功をしているから、すごいのではない。全てが否定しつくされ、残っていたのは、この心だけでした。そう、「一生懸命生き抜く、強い心」がすごいのだ。気功とは、「一生懸命生きる強い心」を教えているのです。
その後、ぼくは日本に戻り、しばらくして、「趙光先生が亡くなった・・・」と連絡を受けました。
あの日から、随分たったけれど、今、やっと、その現場、ぼくの戦場に戻る機会がやってきています。
今度は、もう一人ではなく、強いチームで。
ぼくが、この想いと共に中国に戻ると言うのは、自分の命よりも、大事なもの、信念を中国に置いて来ているからです。
それは、趙光先生との間で見出した想いだったのかもしれませんし、あの現場に置き忘れたものをもう一度取りに行くの事なのかも知れません。
全ては、一途に生きる意味のために。
そう、お墓参りをしなくては。趙光先生に伝えたい一言。
「趙光先生、ぼくの心は先生の想いと共に強く健やかに成長しましたよ!」
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