最近、仙道に関する質問が、よく寄せられてきます。お仲間のウィリアム(William)も、風水から入って、今では、瞑想世界である仙道を学ぶことに夢中なようですし、エドも必死に左脳をフル回転して、瞑想しているみたい。
なかなか、そういった努力を見ていると、初々しくて、自分の若かりし日々を思い出します。
とにかく、がむしゃらだった日々を。築基と呼ばれる小周天も終わり、坐忘することも多くなり、自分の修練生活に確かな確信を持ち始めたころでした。ちなみに、小周天には、二種類あります。五体の神を使った意周天と気を使った小周天です。
日々体験を深める瞑想生活が楽しくてしょうがない時期でもありました。がむしゃら過ぎて、一度だけ、何もかも捨てて山に行き、仙家として修練のみに専念しようと思った事があります。つまり、世捨て人ですね。
と言いますのも、まず、清い気が噴出する龍穴を見つけ、自分の瞑想生活にあった節度ある人生を山の中で庵でも結び暮らして行こうかなと考えていたのです。
それを実行する覚悟を決めた時に、先生の真陽子に一言いわれました。
真陽子:「入山して、龍穴を見つけて、修練しても何も変わらないだろう。
過去の記憶の回廊を巡るだけの瞑想生活になる。
そうやって、入山し発狂した人間を何人も知っているぞ。
山の生活は、とても厳しく、自然は容易に人の命を奪う。」
ダニエル:「死ぬことは、怖くはありません。怖いのは、都会の煩わしい
生活によって、修練が進まないことです。
そして、厳しい自然と一体化してこそ、得られるものがある
というものです。この都会の生活は、どうやら、
私の修行場としては相応しくないようです。」
そう答えたのを覚えている。
真陽子:「この都会の中で、修練生活を維持し続けることの方が、
お前の勝手に定義する自然環境で修練をするよりもハードだ。
人間もまた、"自(おの)ずと然(な)りたつ"、自然なのだ。
そんな人間が溢れ返した都会とは、ある意味、
究極の自然環境なのではないか?
つまり、険しい山野こそが、自然だと言い張るお前は、
この都会というより厳しい自然環境から、逃げようとしている
自然界の中にあって、弱者に過ぎないのだ。」
それ以来である。ぼくはこの都会の中に半身を埋めながらも、決して流されないように、自分の修練生活を忘れずに、この自然界を生き抜くために、ここに踏みとどまった。
真陽子:「厳しい自然環境の中で、生き残るために、仙道は、
歴史の経過と共に進化してきた。この都会生活の中で、
修練を続けられるものたちが、より高い境地を極めるだろう。」
確かに、その通りだと思った。例えば、仙宗北派の調息、つまり呼吸法は、激しい武息が特徴的なのは、中国の北部で発展したこの流派の置かれた気候や風土を如実にあらわしている。武息は、体温を著しく上げる。経済的に恵まれたものしか、暖かい暖炉に火を灯すこともできなければ、暖かい衣服さえ着れずにいた当時の時代背景と共に、北派は、激しく強い呼吸を繰り返した。
死なないために。そう、それは生き残るための生命を燃やすメソッドだったのだ。それに比べ、土地が肥沃で豊かな江南地方で、発達した東派の呼吸法は優雅だ。
かつて西洋社会におけるルネッサンスが、芸術家を支える多くのパトロンたちによって、栄えたように、東派も、多くの在家の支援者たちによって支えられ、沢山の研究精華が集められた。
東派の呼吸法は、易卦が自然界のリズムを醸し、優雅でいて華麗である文息を発達させた。圧倒的な時間の短縮が可能になったばかりか、人体構造の神秘として重秘に指定されている「卦気調息法」と呼ばれるものがある。それは、時代背景だけに留まらず、当時の文化をも背景に秘めている。
ちなみに、東派では、300年前から、北派の荒々しくも激しい武息に対して警鐘を放ち、武息によって、「早死にする」ことを指摘していた。そして、現代に至っては、呼吸によって肺に取り組んだ酸素が活性酸素に何度か変わり、過分な活性酸素は、細胞に損傷を与えることが指摘されたことによって証明されたのだ。
もともと、二つの呼吸法は、志向性が違う。人が環境に適応させ、調和を試みた結果、その対象となるったものが異なったためである。粗末な衣服、燃えない粗末な湿った木炭を前に、北派の達人は、貧しい人々が生き抜く方法を開発しなければならなかった。全ては「生き残る」ために。ここに、五術の根本定義がある。そして、北派の武息は、多くの人の命を救ったのだろう。
そして、そこには時代に現れてくる民衆の生活様式にかかわりを持った文化、環境を人が融合して行く、自然に淘汰されないように強く生き抜く姿がある。
例えば、経済が栄え、豊かな土地質であった江南地方で発達した東派は、他の仙道流派のように山の中から、生まれてきた文化ではなく、人がひしめきあう都市と呼ばれる環境とその中で醸しだされた生活文化と密接な係わりあいを持って、派生した流派だった。
こうやって、歴史を振り返ると、先生の真陽子の言った「人間もまた、"自(おの)ずと然(な)りたつ"、自然なのだ。そんな人間が溢れ返した都会とは、ある意味、究極の自然環境なのではないか?」という言葉の意味について深く心得する。
そんなこんなで、何故か、一人だけ残されてしまった東派残党、山道ですが、お問い合わせも多くて、こうやって、色々書いたりもして、皆の「認識」の向上を努めています。
奇しくも、仙道の修練階梯とは、己の体験を通してしか上達がないため、一つ一つの認識をクリアーしていかなければ、その先がない。そのため、知識と認識は違い、その違いが仙道では取り返しのつかない差になる。
例えば、世間では、十二正経も、奇経八脈も知られているが、二系統の関係について、理解している外部の者を未だ見たことがない。もちろん、裏側の伝人クラス達を別としていっている。ちなみに、この関係を理解していれば、一言で言える答えのため、世の学習者にカンニングをさせて、答えを聞いても、知識を持っていて、認識がないのと同じため、ここではこの二系統の回答は省く。
こういった知識が認識に変わる体験を経た修練家ならば、自ずと瞑想、打坐の調身における姿勢も変わるのだろうが、世間では驚くべきほど、正しい有り方が説かれていない。
只管打坐(しかんたざ)とは、道元禅の特質を端的にあらわした語であり、ただひたすら坐禅すること、全身心をあげて坐りぬくこと以外に、仏法の体得はないとされ、打坐即仏法ともいう。
しかしながら、禅宗の打坐を見ていると、腰を引き胸を張った姿勢で背筋を伸ばそうとします。それは、督脈と呼ばれる奇経に属する身体の後正中線を流れる経絡の流れを阻害します。
つまり、身体内を流れる経絡というものを配慮していないことがうかがわれるのである。これが、禅宗と仙宗の決定的な違いで、どちらも、純然と瞑想という点だけで、見るのならば、一切宗教色も、記号類型をも必要としない五術と宗教の範疇に属さない「ただ坐る」を主眼にした一つの修練だが、仙道は、経絡理論や人体の構造を医術と併せて修練、瞑想をするという点において禅との相違がある。
例えば、督脈を流れる気を正しく身体に循環させるために、仙道では調身「含胸抜背」のを重視する。上半身の力を抜き、胸を張るのではなく、含んで背を伸ばすのである。
腰を伸ばして、胸をすぼめる様にしなければ、人体の構造から、丹田に気が落ちない。胸が前に出すぎると、息を吸いきれないという呼吸法の上でも弊害がある。
つまり、禅宗が正しい心の状態や精神修養を追及するのは、仙道と共通な点だが、そこには明らかに身体に対する配慮がない唯心主義が見て取れるのである。そのため、、臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧である白隠禅師(1686年- 1769年)は、『夜船閑話』で、仰臥禅(寝禅)などを唱えたが、「含胸抜背」無き既存の打坐よりは、健康にも良いものだった。また、その観想法である「軟酥の法」などは、顕著に仙道の技法に見られるものだった。
つまり、修練と呼ばれる山の頂きに登るためには、禅宗のように、心の問題だけを考慮したと言わんばかりの肉体に流れる血流(精)や、経絡(気)、神経(神)などの人体生理や機能を無視し、ただ闇雲にただひたすら坐禅することだけでは足りないのだ。
禅宗と仙宗に共通する調息・調身・調心の修練メソッドたちも、全ては調和を目指したものであり、何に調和するかということを決して疎かにしてはならない。人間がその時代の文化を通じて、自然環境の中で調和し、「生き抜く」ことを目的として、それが根幹なのだ。
それでは、修練とは、より強く「生き抜く」事だという根幹を踏まえて、ただひたすら坐禅することでは、何が足りないのだろうか?
五体満足という言葉がある。 この「五体」という言葉の中国伝統医学での意味は、「識、神、気、精、力」の五つの人間の本(もと)を指す。
五体とは『黄帝内経』といわれる唐代に発見された現存する中国最古の医学書の中から出た言葉である。
「力」は、一般的に言う物質エネルギー、ちからです。 ―――――|
|――命・・・体
「精」は、身体の中の滋養分としてのエネルギーです。―――――|
「気」は、身体の秩序を保っている機能の微細エネルギーです。 ―|
「神」は、心のなかで精神活動に使われるエネルギーです。―――|
|――性・・・心
「識」は、意識、記憶、認識などを保っているエネルギーです。――|
仙宗における瞑想とは、心と身体を見つめた性命(心体)双方に基づく、五つのものさしである「五体」が、常に重視されている。
そのためには、つまらん形骸化した語録を一生懸命読んだり、並べたり、過去の人の残した言葉だけにすがり、現代の生活様式や文化を無視した解釈を試みたりするのでは、人は救われないよ。すがりまくった結果、写真みたいな感じになる。哀れな現代人をたちを写真から見出してくれ。己を鍛えよ!さすれば、他人を頼り、こんな結果にはならない。「心のものさし」という危ない物干しサオならぬ説法と棒に打たれて、騙されて、肉体まで寄進するただの信者に成り下がってはならない。心を騙されて肉体を失う良好なケース写真である(笑)。比喩だけどね。
心と身体、両方修練が必要である。仙家では、「性命双修」と言う。性だけに偏ってはならない。ヽ(`△´)/
ちなみに、性だけに偏っているのが、ただ闇雲にただひたすら坐禅するだけの禅宗なのである。
そのために、仙道では、性命双修が説かれた。心だけではなく、命と呼ばれる我々の身体のあり方、身体観そのものをも含み、医術と仙術の見地を用いて、五体全てを鍛えるという発想を持つのだ。
常に更新され続けて行く文化を見つめ、現代を見つめない人間に修練などありえないということを真陽子から教わった。
この身体も、この霊魂も等しく、時間の経過、時代、文化、環境の中に還元して同時に見つめる。そして、それは、「自(おの)ずと然(な)りたつ」、自然が求めた一つの新しい自然界に生きる人間のカタチなのかもしれない。少なくとも、仙道は、そうやって進化してきた。
ぼくは、真陽子からの教えを受け入れ、自分なりに一つの修練体系を組み上げることができた。それは、グルジェフの提唱した第四の道、ワークに似ているのかもしれない。
現代人は、古代人が成し遂げた気による修練体系を追及するのではなく、現代人が顕著に神が余っているという特徴を生かして、五体が内の一つ、神を巧みに用いて鍛えれば、修練は飛躍的に進化する。これは、真陽子がぼくに教えてくれた「時代を見つめる」ことにより、現代社会、都市での生活、文化の変容、様々に要因を考慮して熟考されたものだ。つまり、時代を見つめることにより、更なる進歩を遂げたのである。
この現代社会において適合した最善のカタチ。それは、気功ではなく、神功である。「神功自在」をモットーに大都会の中、心を隠すことなく裸で暴れまわり(;◔ิд◔ิ) !!! 己が修練体系を披露して行きたい(時間があれば・・・)。今は、風水で忙しいのね。全部関係しているんだけど。(→ܫ←)
人間を卓越していた真陽子から言われた未来予言の一言が、いまでも、ぼくの自信と支えになっている。
真陽子:「お前は、やがて一派を起こす。その時)」
今は、色々な流派に束縛されているがな!ヽ(`△´)/
その後、しばらくして真陽子は行方知れずになり、私はこのアスファルト・ジャングルに残されたが、現代社会、文化に還元して、新しい神功を更なる発展させることができた。
しかし、それも調べれば調べるほど、古代にあった痕跡と形跡を見出すに到った。
結局、人間は堂々巡りをしているのかもしれない。そういった点を考慮すれば、あらゆる教えや、技法の中に、「悟り」はないのだ。
ふと、そんな説明をしたくなった秋の終わり。都会のど真ん中で暮らす日々も、また自然の中にいるのと何ら変わらない。全ては自分で造り出して行く概念であり、目くるめく、季節のごときもの。どこかに行ったから、変わるのではなく、どこかに行くまでに変わるのだ。
道を踏み外さないために、識神を鍛えよう!人間の無限の可能性を追求し、広大な可能性という畑を耕すのだ。
今はしがない、大都会の中で、1エーカーも土地を持たない1ワーカーだがな!ヽ(`△´)/
ただし、「五体」全てを鍛えることで、観念化されない世界の広大に広がった土地を耕し続けているぞ。
今日も、五体満足で過ごせる日々をお天道様に感謝します。(х^ิ_^ิх)
恵比寿の自宅より
丙辛壬戊
申卯戌子
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