最近、縁あって、ポツリ、ポツリと何人かに、五術の「山」について、語り始める。
山の修練で怖いのは、肉体の修練と精神活動の修練のバランスである。肉体における血や気の清濁、血管の詰まり具合や強度、経絡の開き具合から、微細な部分にいたるまで、問題があるのに、意念を駆使し無理な観想を繰り返すと、肉体レベルでの弊害が出る。
蕁麻疹や偏頭痛など人によりケースは違うが、肉体レベルの問題に移行したときに、原因を特定しなければならない。
もちろん、心の問題である過去のトラウマがフラッシュバックして脳裏を過ぎり、「克服したつもり」「忘れたつもり」で過ごしていた無意識に潜んでいたエネルギーの滞りが噴出す場合がある。そして、己と向かい合う苦痛に苛まされ、心が悲鳴を上げ、肉体レベルの問題が出る場合もあるのだ。定力が足りないが故の問題が噴出す。
等閑(なおざり)にした過去の自分に出会う。「つもり」の虚像の世界に生きる者達にとって、己と向かい合うことは、それほど簡単なことではないのだ。人は皆「生きているつもり」なのだ。幾重にも作られた垣根のような「つもり」の世界。それはまるで玉葱の皮の様な世界。そこから脱出することが修練の第一歩である。
一番怖い問題は、色々な修練体系をチャンポンしている人たちである。例えば、仙道の中には、上丹田から修練を推し進めて行く流派もあれば、下丹田から開窮する流派もある。つまり、体系が全く異なる。
仙学の流派である北派や西派、東派などではエネルギーを溜め込み縮小する方向性を持つが、密教や仙学の中派のように拡大する方向性を持つものとでは、同時並行の修練は不可能だ。
更に怖いのは、「固定観念」である。先入観で自分にとって必要だと思われる修練と必要ないものとを勝手に決め付けてしまうことは、最も恐ろしい。
階段のように張り巡らされた古代人が作り上げた梯子を成り立たせる一歩一歩の修練を飛ばして登って行けるほど、気楽なものではないのだ。
選り好みをして継ぎ接ぎのように目新しいものを貼り合せて人造的に作り上げられたスピチュアルな講座ならば、それで良いだろう。ただ、仙道や密教など長い年月により熟考され多くのデータを持つ伝統文化は、そういったスピチュアルの類とは一線を画するのだ。とかく現代では、木漏れ陽から溢れ出す様に多くの知識・情報が飛び交うが、葉を見て樹を見ない状況である。
現代では、教える方も一苦労である。修練家を目指す人々が、まず向き合わなくてはならないのは、己の先入観、固定観念を斬り捨てる事だ。そこから、まだ見ぬ山が姿を顕す。斬即是山である。
並々と水が注がれた容器に、それ以上に水を注いでも水はただこぼれるだけだ。教えを受け取る側は、まず己を斬り捨てることだ。そして、空っぽになった容器であってこそ教えという水を受け取るのに相応しい。
そして、人が山の頂上を目指し、修練に取り組むのは、そこに拝むべき神がいたり、天国の扉があるからではない。そこに答があるからだ。
「本当の自分と出会えて、それでもやっぱり良かった。」と、素直に湧き上がる喜びが、心から溢れ出して来たとき頂上は近い。
人は、まだ見ぬ自分と出会うために険しい山を登るのだ。
そして、山を登ることが修練に他ならない。
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