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« お引越し風水 | メイン | 学者の陥る風水研究の罠 »
2008年8月24日 (日)
研究者として、プロとして問われること

 引越しに伴い、沢山のダンボールにつめられた本のコレクションのなかには、風水の定義となった唐代、郭璞の『葬書』よりも、古いとされる書物など、風水の定義自体を変えてしまうものも沢山ある。それらの貴重な歴史資料たちは、既に台湾や中国からも失われてしまった。もちろん、図書館にもない。縁あって小生が保管しているが、正しく世に出して研究したいとも思っている。

  「気乗風則散、界水則止、古人聚之使不散、行使有止、故謂之風
   (気は風に乗ずれば散じ、水に界てられれば即ち止まる。
   古人はこれを聚めて散ぜしめず、 これを行いて止めるあり。
   ゆえに、これを風水という。)」

 有名な郭璞の著した『葬書』の定義も、『葬書』だけではなく、出自の古い『青烏經』『狐首經』の内容と比べると、世間で知られている最も古い定義と比較するに足る資料は沢山ある。

 もう一つの、物の見方として、風水師という山野をフィールドワークする実践家の経験を踏まえるならば、『葬書』の風水定義は「気は風に乗じて則ち散じ、水に界てられれば即ち止まる(氣乘風則散,界水則止。)」とされ、日本の風水研究者の間では、この様に読み下し、「風水」を定義する。

 しかし、この様な読み下しは正確な風水を論じるうえでは、水が気を遮るなどということはないので、問題があると言わざるを得ない。

 私は、「水に界てられれば即ち止まる(界水則止)」という解釈は、正確な風水の定義とさえいえないと思う。

 「気は風に乗じて則ち散じ、水を界すれば即ち止まる(氣乘風則散,界水則止。)」ならば意味は通る。

 つまり、気は水を境にして流れを止めれば気は止まるのである。当然、気脈、山脈、龍脈は水と出会い、水を境にして、その起伏を失い広大な水でできた平面と接するのである。このような、水の広がる明堂をとることを風水の専門用語で「満堂水」と言い、気が溜まり素晴らしい場所とする。

 それは、学者の持つ認識ではなく、フィールドワークを繰り返す風水師たちの持つ認識の中において顕著なのである。

 台湾の著名な風水師、孔日昌(1919年-1984年)は、北宋(960年-1127年)の賴文俊が著した『催官篇』の注釈書である自著の『地理催官水法』にて、「界水は来龍の止まる所であり、小祖から龍勢を下界に送ることを第一とする(界水所以止來龍,自小祖下界送龍勢者第一)」と述べている。

 もし、「界水」が、「水に界てられる(水に遮られる)」ことならば、来龍の止まるところは、「水に遮られる(界水)」場所となるのだろう。しかし、それでは風水としての意味が通らない。

 しかし、「界水」が、「水を界する(水を境にする)」ことならば、来龍の止まるところは、「水を境にする(界水)」場所となり、意味が通るのである。

 ちなみに、明澄透派十三代の張耀文先生(1934年-2004年)は、「界水」という風水専門用語を『山龍秘旨』に書かれた「界水が肩を穿けば、着眼を庸うこともなし(界水穿肩,無庸着眼)」と訳し、「界水」に詳細な解説を加えている。界水を「穴の範囲、雨が降れば水が通るところ」とし、「界水が穴を通れば、この穴はもう役に立たない」と説明を加えている。

 つまり、「界水」とは学者が字義を追って字義の上からだけとらえるものではなく、風水師としての実践家たちが勝ち得た認識や風水学派たちの経験をこれらの専門用語に観念として加えたのは言うまでも無い。

 もし、このような時宜を経た風水専門用語の解釈をできないのならば、その様な言葉尻だけの解釈など、児戯に等しい。

 また、 『青囊經』、『錦囊經(葬書)』などは風水の最古の部類に属する古典籍として知られているが、『黑囊經』、『白囊經』、『黄囊經』、『紫囊經』などの五色コンプリートした古典籍の発展形態などは、あまり知られていないだろう。まあ、収集マニアにとって喜ばしいことで、こんなものを集めたから堂だとは言わないが(笑)。

 日本での風水の研究は、学者を含め、あまりにも何も研究されていない。現代では、フィールドワークなどは、研究者にとって必須のテーマが、風水の分野だと思われるが、日本国内では皆無と言わざるを得ない。

 また、これらの貴重な風水典籍が、民間人である小生の手元にあり、学者さんたちはあまりにも風水の大事な古典籍を持っていないのも皮肉な現状なのだろうが・・・フィールドワークくらいしても良いものだろうに。

 ダニエルは、台湾や中国をフィールドワークしながら、歴史から散失した沢山の文献を自らのフィールドワークの中で、人間関係を構築し、大金を積んだり、時に譲り受けたりして手に入れた。学者さんたちは、そのような努力をしているのだろうか?もちろん、金で買えないものは、情熱で買えるようにトライするのが、ダニエルが各国を渡来して、得たものでもある(笑)。

 まあ、金で買ってはならないのが、女の子の「ハート」と、価格のつけようがない心から心に伝わる「心伝」だろうと思う(笑)。ハートと「心伝」は同じですな。

 狭い研究室に篭って研究しているだけでは何も生まれてこない。篭るのではなく、研究者としてフィールドワーク、尋龍点穴くらいしてみるものだろうに。もし、風水といわれる分野をまじめに研究する気がある学者さんが、日本にいるのならば。

 しかし、日本で風水に携わる表の世界のプロと呼ばれる人たちが、どのくらい正しい尋龍点穴ができるか疑問が多い。

 沢山本を書き、少しは「山に入ったりして、フィールドワークしているぞ!」と、自分の感性の尋龍点穴を謳う人は沢山いるが・・・伝統風水文化に裏付けられた根拠は何もない。ダニエルとある戦士が分析した日光東照宮のように。

 それだけに、フィールドワークという戦場を駆け抜けた一人の戦士として風水世界を見てきたダニエルとしては、日本の風水世界といわれるプロの世界が戦場のように思えてこない。そこも、またただのぬるま湯なのだ。

 そこには、ただ醜い人間関係の戦場があるだけだ。ぼくは、表側のコミュニティとどことも一切係わりがない。

 何故、向上心、研究心、探究心、ありとあらゆる自分の全身全霊を賭けて、前に進み、眼前に広がる景色を見ようとしないのか。そして、学者はフィールドワークさえしないのか!?

 でも、最近気づいたのは、そのような向上心と探究心がある戦士たちが、日本のプロの世界にもいるということだ。今回のレイモンド・ロー先生の講座に来ていた人たちのなかには、風水界のジャック・バウアーを始め(笑)、そのような人たち、つまり、日本にも戦士、もとい武士(サムライ)たちがいて、嬉しかった。

 ダニエルは、そんなプロ達を支援していきたい。チャンスがあれば、日本で台湾に隠れているある戦士などの講座も開いて見たいが、健康状態的に難しいだろう。

 そもそも、現代における台湾の風水師でも大半がイカサマ師だと考えても間違いがないくらい、本場からも貴重な人材が次々に他界してしまい、風水文化の世界における職人は姿を消しています。それは、あたかも、既に高麗青磁を焼ける職人がいないように。

 風水は、唐代が全盛でそれ以前の古典が風水の様々な分岐路を物語り、とても価値があるが、現代ではそこまで全く考慮されていないし、学者は唐代以前の風水文献を持ってさえいない。文献学だけが日本の学者のリサールウェポンなのに。

 社会的には、研究者でもなければ、風水で生活を成り立たせているという意味でのプロではない民間人ダニエルが、日本の風水研究者達よりも、多くの文献を持ち、日々研究を重ね、何年もフィールドワークをし、多くのことを考え、古代から、現代を見つめようとしている。

 そして、それが現代にとって意味のある風水思想になるように活動し始めるように流れを作るのが自分の仕事だと心得ている。

 そのとき、唐代から止まった時計がもう一度動き出すように、フィールドワークだけでなく、研究も重ねたい。また、心あるプロの人たちと手を繋ぎ、現代にも価値のある風水の姿を模索したい。それは、風水から生まれる現代思想の一つになるだろう。また、そうなるように、研究をし、答えを模索している。

 本日、引っ越して来た新居は、そんなダニエルの研究を世に問う気運を感じさせる場所です。

<関係ページ>

  • 堪輿と擇日法
  • 理気とは何か?
  • 学者の陥る風水研究の罠
  • 研究者として、プロとして問われること
  • 擇日法


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    私は、三重大学の貝崎先生のご本は、様々な風水本でも、余計なことは書いていませんが、そこそこのものだと認識しています。
    日選びにしても、世界と日本の変遷の経緯などを学者としては実直にご研究なさってご本をお出しになっていると思います。

    きっとこちらの主には研究不足でご不満な内容なのでしょうね。


    いろは | [URL] | 2008/08/24 1:46:55

     目崎さんの『図説風水』という本を立ち読みしたことがあります。

     読んでいて思ったのは、多くの風水研究家や学者に見られる過ちが、多々あり、内容に不満があるのではなく、ただ単に間違っている方向性を強く感じました。

     以下、小生なりに日本の風水研究家といわれる学者の誤りを列挙します。

    一、風水の定義とは
    まず、第一に、学者と実践家といわれるプロの決定的な違いは、学者が書いたものは、あくまで、研究されたもので、客観的視点に耐えうるものでなければならないと思います。
     その点、実践家と言われるプロの風水師は、風水であろうとなかろうと、本が売れたり、自分のCMのためには、ありとあらゆることを主観的に書き綴るものです。
     そのためか、おそうじでさえ、風水といわれる日本人の風水認識のなかに、学者が共通の「風水」と言う二文字を民間レベルの定義と混同して、もしくは、「皆様の知っている風水です」のように、決して共通の認識にはじめから立つべきではない。
     学者は、風水を厳密に定義しなければならない。定義するときの条件として、最低限以下の問題は考慮されるべきである。
     ① いつの時代の風水か?また、いつの時代から風水の歴史上における派生と成り立ちを見出し、定義しうるのか?
     ② どういった風水なのか?また、その風水の成立した思想的背景や歴史的背景は?

    二、風水の帰納法的分類

    帰納的定義とは、集合の要素をまずいくつか与え、その他の要素を定める操作・手順を与えることにより、その集合を定義する方法である。しかし、「風水」なるものに学者が接するときに、この帰納定義が全く機能していないことが良く分かる。

     例えば、風水は、少なくとも、明代には、中国国内では、以下のように、帰納法的分類が行われていた。

     例えば、理気には、以下のような学派があり、それぞれに違った思想背景と視点を持ち、風水を発展させていた。

     <六大課・三式による風水>
      太乙派風水・・・六大課・天式「太乙神数」に基づく。
      奇門派風水・・・六大課・地式「奇門遁甲」に基づく。
      六壬派風水・・・六大課・人式「六壬神課」に基づく。

     <六大課・三典による風水>
      星平派風水・・・六大課・中典「星平会海」に基づく。

     <その他>
      合元派風水・・・三元派・三合派に基づく風水
     
     だが、学者は、一体いつの時代の風水をどういった分類で見つめているかさえも明らかにしていない。

    三、一体どういった「風水」の視点に立ち、風水を読み解こうとしているのか?
     
     目崎さんの本で読み解こうとしている事例、場所などに、独自の風水観がでて来るが、学者ならば、場所を分析する際の風水技術を学派といわれる流派ごとの視点に立ったりして、多角的に見なければならないが、主観的になり、「自分の知っている風水だけが風水」のような独善的な主観のなかに陥っている。実践家といわれるプロならば、それで良いだろう。
     しかし、学者の書く本は、実践家といわれる人たちの本とは違い、常に客観的なアカデミックな論法が必要ではないか?
     そんな一神教でも研究するやり方では、とても、とても、学問と呼べません。風水は、アミニズム文化から始まり、汎神論としての思想背景の下で、進展してきた「宗教儀礼」や、同郷、仙道で見られるような「気の世界」をも含むのです。そもそも、「風水」の二文字の風と水の主語が気なのですから。また、古代人の天体観測における天体と大地との対応など、風水は甚だ自然科学の分野にも言及します。

    以上の三点から、学問的視点を完全逸脱した研究と言わざるを得ません。


    ダニエル | [URL] | 2008/08/24 22:29:29


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